元ヤフーの「ミスター検索」が、神戸市のCDO補佐官に転身した理由

神戸市CDO補佐官、兵庫大学現代ビジネス学部教授 宮崎光世

新卒で就職した企業で働き続けていると、50歳前後になれば、これから先の社内での立ち位置がおおよそ見えてくるものだ。

そんな時期になると新たなキャリアを考える人も多いが、現実にいまいる会社を去るのは少数派だろう。今回は、そんな少数派の1人であり、大手IT企業ヤフーから転身して、神戸市のCDO( Chief Digital Officer)補佐官として活躍している宮崎光世を紹介したい。

インターネットが普及しはじめた1997年、東京大学大学院で地理学を学んでいた宮崎は、大学院を中退すると、その頃まだ創成期であったヤフーに身を投じた。社員番号は36番、いまや従業員数が7000人を超える同社に36番目に入社した。

以来、宮崎はずっと花形事業であった検索エンジンを担当していたが、今年4月、24年間働いたヤフーを辞めて転身。宮崎にその理由と、神戸市での仕事について聞いた。

検索事業の火が消えて


宮崎は、2015年の3カ月間、ヤフーに籍を置きながら神戸市で働いたことがあった。神戸市はこの頃、「スタートアップの育成」を施策の柱に据えて、起業家や起業をめざす学生たちの支援を始めていた。

これを進めるには、民間企業でこの分野の経験がある人間の助力が必要と考え、神戸市はITの知識や経験だけでなく、米国シリコンバレーでのつながりも持っていた宮崎にサポートを求めた。

実は宮崎にとっても、この年は転機の年だったという。宮崎は言う。

「ヤフーの検索事業は、打ち上げられたロケットのように、毎年爆発的に売上を伸ばしてきました。検索結果から利用者に合わせたウェブ広告を表示するという、テレビ広告を越える新しい広告媒体が誕生していたのです」

この検索事業を中心となって進めてきた宮崎は、やがて「ミスター検索」と呼ばれるようになった。

ところが、GAFAの一角を成すグーグルがヤフーの前に立ちはだかった。検索は、地域や過去の履歴に合わせて個人ごとに異なる結果を表示するなど次々と進化していく。この検索事業をめぐる戦いで、日本のヤフーは国内でトップのシェアを維持していたが、米国のヤフーがグーグルとのシェア争いで敗北することが決定的となっていたのだ。

そこで、日本のヤフーは検索エンジンの独自開発を断念せざるを得なくなり、2011年にグーグルのエンジン導入に踏み切った。現在でもわれわれがヤフーのトップページから検索したとき、その裏で動いているのはグーグルのエンジンだ。宮崎は続ける。

「順調に飛び続けていたロケットが突然、空中分解したような瞬間でした。検索だけでなく広告表示のロジックもグーグルのテクノロジーを使うことになりました」

宮崎は、そこでロウソクの火が消えたと思ったという。しかし、2014年に米国のヤフーで密かに再び独自の検索エンジン開発が行われているのを知ると、気持ちは高揚した。

ところが、翌年の2015年、台湾出張の最中に米国のヤフーが検索事業への復帰を断念したことを聞かされる。そんなときに、上司から「神戸市がシリコンバレーに精通した人材を求めている」と声を掛けられた。

宮崎はその誘いに「この10年間、年に4回はシリコンバレーに2週間ほど滞在していた。自分の経験が生かせる」と思い、乗ったという。
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文=多名部重則

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