日本のシティポップが、世界中でマニアックな人気を博しているという話を聞いたことがある人は多いと思う。それでは一体どのようにして海外でも聴かれるようになったのだろうか。
簡単に言ってしまえば、2000年代にディスコ〜ブギーのリバイバルがあり、次いでヨットロックが発見されたあとで、DJたちが「このふたつの音楽とよく似てはいるけどまだ知られていないポップ・ミュージック」を追い求めた結果、日本のシティポップにたどり着いたのである。
ディスコ〜ブギーとは、70年代後半から80年代前半にかけてアメリカで作られたダンサブルなR&Bのこと。ディスコ・ブーム以降ということもありリズム・アレンジが整理され、メロディがスムースでメロウなのが特徴だ。
それでは、ヨットロックとは? 要するにディスコ〜ブギーと混ぜて流しても違和感がない、R&Bやジャズ・フュージョンの要素を取り入れた洗練されたロックのことだ。
「それはAORのことでは?」と思った人もいるかもしれない。概ね当たってはいるけど異なるところも少なからずある。そもそもAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)という言葉と定義自体、日本で生まれたものだからだ。
こうした音楽は本国アメリカでは「アダルト・コンテンポラリー」や「ソフトロック」と呼ばれており、カントリー風ポップスも含んだ大雑把なものだった。ヨットロックという名でジャンル化したのは、21世紀に入ってからである。日本でいうAORと何が違うのか、なぜこのような間の抜けた名前が付けられたのかは後で触れるとして、まずこうした音楽がいかにして育まれたのかを説明しよう。
AORとの違い
もともと白人ロックは「パフォーマーが十代の頃に愛聴していた黒人音楽」に影響される傾向がある。1940年代前半生まれのロッカーが十代の頃に夢中になっていたのは、50年代のシカゴ産ブルースであり、60年代にはこれに影響されて遠く離れたロンドンやサンフランシスコでブルースロックやサイケデリック・ロックが作られた。
これに対し、1940年代後半生まれの子どもたちが好んで聴いたのは、モータウン・レコードの作品に代表されるポップR&Bだった。しかもモータウンは遠い場所から憧れる存在ではなかった。というのも、1970年代に入ると創業の地であるデトロイトから、当時の白人ロックの中心地であるロサンゼルスに拠点を移したのだから。アレンジのノウハウは瞬く間にロサンゼルスのセッション・ミュージシャンに共有されるようになり、白人ミュージシャンも最先端の黒人音楽にリアルタイムでアクセスできるようになったのだ。
かつてはサンフランシスコでブルースを歌っていたボズ・スキャッグスがロサンゼルスに拠点を移し、モータウンの仕事で知られるジョニー・ブリストルをプロデューサーに迎えた1974年作『スローダンサー』はこうしたアクセスの最初の試みといえる。これを発展させたスキャッグスは1976年、ヴァン・マッコイのディスコ・ヒット曲『ハッスル』にヒントを得た『ロウダウン』を発表し、ヨットロックの原型を作り上げた。