国内外からの批判と解任を求める声は大きくなるなか、森氏は辞任の意向を示し、2月12日に辞任が正式に表明されました。
しかし今回の一連の出来事は、森喜朗氏個人の失言に留まるものでなく、日本社会に根強くはびこる様々な問題を見事に凝縮したものと言えます。その一つが、男性ばかりがメンバーや発言者である会議やイベントと、それが暗示する日本の暗い未来です。
もちろん中には、男性だけで話すことが適切な話題(例えば生物学的に男性しか経験しないようなこと)もあるのかもしれません。けれども最近私が目にして驚いたのは、日本のオリンピック評議員会のみでなく、持続可能な開発目標(SDGs)や「コロナ後の日本の社会」などについて議論する場において、見事に発言者全員、あるいは圧倒的大多数が男性のものが、当たり前のように開催され宣伝されていたことです。
時には「女性をいれればいいんだろ」と言わんばかりに、若くてキレイな女性をお飾り司会者として配し、実際の講演者はズラリ男性というような会もあります。
私が長年勤務していた国際機関では、既に10年ほど前から「男性ばかりのパネルには参加しない」という幹部が増えてきています。ロジックとしては、世の中の半分(以下)の人々の視点しか反映しない委員会やイベントは、そもそも企画の段階で不適切だしインパクトも少ないだろうから、参加するだけ自分の時間の無駄ということのようです。
また、本当に(男性である)自分に登壇して欲しいなら、パネリストの数人を女性に変えてから依頼し直してくるだろう、という自信の現れでもあるでしょう。最近は「男性ばかりのイベントには登壇しない」と表明する日本人男性が私の周りでもやっとチラホラ出てきました。
国内より海外で活躍する日本人女性
一方で、この手の議論になると必ず出てくるのが、「でも日本にはちょうど良く発言できる優秀な女性がいないから……」という反論です。上記のような課題で発言できる「優秀な日本人女性」は本当にいないのでしょうか?
私に身近な分野で言えば、Times Higher Educationという高等教育に関するオンライン記事に、少し古い数字ですが興味深い統計が紹介されていました。2014年時点で日本国内の大学・研究機関に勤める女性は1割に満たないのに、海外の大学・研究機関に勤める日本人研究者のうち6割が女性である、というのです。同様に、国際機関の職員は世界全体でみると6割が男性ですが、日本人職員に限ると逆に6割が女性というのも、長年ほぼ変わらない傾向です。