藤本壮介(以下、藤本):僕は建築家ですが、河瀨さんが描く世界にとても共感しています。建築を通して僕自身が実現したい価値が、より理想的な形で表現されていると感じるんです。『朝が来る』を初めとした河瀨さんの作品に通底しているのは「人と人とがゆるやかにつながり合って世界が回っている」という感覚。一人ひとりにとっての目の前の一瞬一瞬が意図を超えて他者と繋がり受け渡されて、価値ある世界の多様な情景が生まれてくる。そこにはすべての人が違いながらも肯定されている場が描かれていて、これからの時代の建築的な場の理想像だと思えるんです。
宮田:「建築的であること」の意味も、変わってきたように思います。建築が権力の象徴だった時代もあったことから分かるように、かつては建築そのものが強い意味を持って、人々を統制していた。今は違いますし、特に藤本さんは異なる視点を持っていますよね。
「場」をデザインする
藤本:そうですね。かつての建築というのは、例えば「オフィス」とか「リビングルーム」とか、世の中をかなり大ざっぱにカテゴライズするところから出発していた。多様性を重視するよりも、標準化して整備する、つまり切り分けていくという発想ですね。
でも、そのやり方ではどうも、さまざまな人々の豊かな活動や暮らしをすくい取れないということが分かってきた。
一方で、単に人を1カ所に集めるだけでは、「多様性」というより「カオス」になってしまう。そうではなくて、さまざまな関係性や繋がり具合が有機的に共存することを受け止められる「場」を、どうデザインできるのか。それは建物単体だけではなく、その周囲の状況や気候風土、歴史背景や人々の記憶など、広い視野で見たときの総体としての「場」です。現代の建築に求められているのはそういうことだし、僕自身が一番大切にしていることでもあります。
だから、具体的に設計をするときには、その「場」が置かれている歴史や状況に丁寧に耳を澄ませるところから始めます。
河瀨:「共存」に関していうと、『朝が来る』を観てくれた人の感想で、印象的な言葉がありました。「完全に良い人も、完全に悪い人も出てこないところがよかった」と。この作品は登場人物がとても多くて、なかには裏社会に生きる人もいる。
チンピラが主人公のところへ借金の取り立てにやってくるのですが、それもただ、自分の『仕事』をしているだけ。取り立てをしながらも、「お前、この金どないしてきたんや」と相手の境遇を気遣うようなことも言う。『良い人』『悪い人』というカテゴライズをして、誰かを責めるような描き方をしないように心がけていましたね。