京都で国際展がはじまった。
ウィリアム・ケントリッジや蔡國強、ピピロッティ・リストら、参加アーティストの名前は華々しい。美術館やアートセンターのほか、庶民的な団地も展示会場としているため、従来の古都とは異なる京都を堪能することもできる。
とはいえ国際展としては、とくに目新しい特徴がなかったことは否定できない。事実、横浜や愛知、札幌など都市型の国際展はすでに飽和状態にあり、欧米のアートをパッケージ化した展示風景には既視感を禁じえない。かといって、瀬戸内や妻有のようなローカルな芸術祭ならではの楽しみを見出すことも難しい。
ただその一方で、そうした中庸な印象が、私たちのリアリティと今日の芸術概念の乖離に由来しているように思えなくもない。私たちの感性や知性が現状の国際展に満足しないのは、それが依然として旧来の芸術に依拠しているからではないか。
アフメド・マータルはサウジアラビア出身の医師でアーティスト。近年激しく変貌を遂げているイスラム教の聖地、メッカの都市風景を記録した映像を発表した。映されているのは、超高層ビルの建設現場や古い建物の解体現場。高所作業の恐怖感や建物が崩落する高揚感を十分に味わうことができる。
注目したいのは、その映像が彼自身によって撮影されたものではなく、工事現場の移民労働者が携帯電話で撮影した動画や、ネット上に流通している動画を編集したものであること。今日の「映像」が無数の匿名性による「動画」と表裏一体の関係にあることを、本展においてマータルはただ一人、象徴的に示したのである。
今日、撮影する主体と鑑賞する客体を明確に切り分ける「映像」が芸術性を担保することはない。「動画」の撮影機能を備えたデバイスの流通は、私たちを単なる鑑賞者から撮影者に押し上げ、結果的にアーティストの「映像」を根本から問い直すことになったからだ。かつてヨーゼフ・ボイスは「誰もがアーティストである」と挑発したが、新たな芸術は、この言葉の潜在的可能性を具体的に顕在化するところから生まれるにちがいない。
『PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015』
UNTIL:5月10日(日)
LOCATION:京都市美術館、
京都府京都文化博物館 別館、京都芸術センターほか