私と角記者は、その場で時系列に合わせてそろえ始めた。日付は封書の消印で確認したり、中の便せんに令子さんが書き込んだ日付で確認したりした。消印がにじんで判然としないものもあり、分類は手間取った。
ようやく年別にまとめたところで西山家を出て、角記者の車で彦根市内にある中日新聞の彦根支局に向かった。預かった手紙をすべて支局のコピー機で複写するためだ。
到着する前、社会部の後輩でもある原一文支局長(肩書き当時)に電話を入れておいた。原支局長は着任して間もないこともあり、事件のことを詳しく知らないようだった。10年以上も前の事件で、地元ですらほとんど忘れ去られた扱いになっていることが、その反応から想像できた。
「冤罪ですか?」
到着早々、原支局長の問いかけに「まだ海のものとも山のものともわからんけど、とりあえず、大量に手紙を借りてきたところ」と答えながら、すぐに角記者と作業を始めた。原支局長は「大きな話になるといいですね」と言って、夕方に支局員の原稿が集中し始めたデスクトップパソコンの前に戻り、原稿の手直しを再開した。
西山さんからの手紙の一部(Christian Tartarello撮影)
手紙は、封書1通に便せん4、5枚が多かったが、中には10枚にわたって、辛い思いを切々と訴えているものもあった。その日借り受けた100通以上の手紙すべてを支局用と私用に2部ずつコピーし、ホチキスで留め、封書に戻す、という単純な作業を2人で黙々と続けた。気がつくと4時間近い作業になってしまった。
こういう時は、作業が終われば、支局長も交えて夕食を一緒に、という流れになるのが普通だが、輝男さんの訴えで、一刻も早く紙面化の見通しを立てる必要に迫られていた私には、そんな気持ちの余裕はなかった。たとえ原稿までの道のりが遠くても、手元にたぐり寄せた情報を一刻も早くデータ化しておきたい。それがデスク心理というものだ。「ミッション2:手紙のデータ化」を急ぎたかった。
角記者は、お父さんのことが気になっていたらしく「私はもう一度西山家に行ってきます。お父さんが納得していないようだったので。手紙を返すついでに、ちゃんと話してきます」と話した。私は初対面だったが、角記者が輝男さんに苛立ちをぶつけられるのは毎度のことらしい。その都度、根気よく、納得のいくまで説明しているのが常らしく、家族の十分な心のケアに配慮しながらの我慢強い取材には頭が下がる思いだった。
彦根駅で角記者と別れ、米原で名古屋に向かう新幹線の自由席に飛び乗った私は、すぐに座席の前のテーブルを倒し、パソコンを開いて手紙の打ち込み作業に取りかかった。調査報道をする場合、まずは全ての情報をデジタル化するのが必須だという理由は後で書くが、すぐに着手したのは、輝男さんに記事化をせっつかれたから、だけではなかった。