守るのではなく、「変わることこそ伝統」と言ってはばからないからこそ、常に自ら高い壁に挑み苦悩し続けてきた。日本酒の顔としてその地位は十二分に確立したように思える獺祭はまた、新たな挑戦の真っ只中にあるようだ。
「次の階段に行くための踊り場がすごく長い」と明かした、旭酒造の4代目蔵元である桜井一宏氏に、“獺祭の現在”について聞いた。
圧倒的負け組から、日本酒を代表するブランドへ
『獺祭』というブランドが広く知られることとなったのは、先代の桜井博志氏の頃のことだろう。「圧倒的な負け組として経営危機に直面していた」という旭酒造は、それまでの主力製品であった『旭富士』の製造を止めて獺祭一本に絞り込み、杜氏の制度を廃止しデータによる醸造管理へと移行。また問屋を介さずに直接正規取扱店に卸すなど、様々な改革を実現してきた。
先代が社長に就任した1984年当時、旭酒造は山口県岩国市で4番目という位置付け。一般的には、その地域で4番目の企業であれば、まず地域で1番を目指すことを考えそうなものだが、「地元で勝てないならもっと大きな市場へ」という発想の大転換により、東京へと進出したというから面白い。
結果として、山口から東京への進出は成功。東京には山口のようにたくさんの酒蔵がある地域ではない。つまり、昔からの付き合いが強力なコネクションにならない、「美味しいものなら持ってきてよ」という品質を最重視した市場だった。
いいものを作ることができれば、それを分かって受け入れてくれる人たちがいる。飲食店や酒屋からの「次も頼むよ」という声が一つずつ増えて行く中で、獺祭は東京での居場所を作った。結果的にその居場所に居続ける事で、獺祭が品質を追求する道に進んでいけたのだ。
と、獺祭が日本で知られる存在となるまでを、駆け足でまとめてみるとこうなるだろうか。