「物語」にしばられ、しがみつく。為末大の「物語」と共存する生き方

為末大さん


「物語」にしがみつき「物語」にしばられる。



──1人でやってきた選手時代の姿と、Twitterなどで多くの人と交わる姿が正直つながりません。


為末:僕には、ふたりの「自分」が常に見えます。「世捨て人」な自分と「社会とかかわりたい」自分。選手時代は「世捨て人」でした。速く走れることだけを求めていた。自分以外の存在は世の中にいないし、いなくて構わないとすら思ってました。

いまは反対に、社会や他者とかかわり何かしらの価値を還元したいと思う自分に寄っています。大きなこと、仕組みを変えることは絶対に1人では無理ですから。

──変えたい仕組みがある?

為末:今の社会は、人の可能性が閉ざされてしまう仕組みのようなものがあるように感じているので、どうしたら人の可能性が開かれるのかに興味があります。

可能性を最も狭めているものは、偏見と思い込みだと思います。偏見は外から、思い込みは中から、それぞれ自分を縛ります。

特に「自分はこういう人間だ」という「物語」が思い込みとなって人を縛っている気がします。「物語」に苦しんでいると分かっても、自ら書き換えることは難しい。その人自身がその「物語」にしがみついている面がありますから。



──どんな「物語」が人をつらくさせると思います?


為末:怒り、もしくは自分を蔑む「物語」にとらわれている人が、特に苦しそうに見えます。

例えば、何かにつけて怒る指導者がいますよね。どうしてそんなにいつも怒るのかと考えるうち、もしかしたらあの人たちは、怒りを通した行動しか経験してこなかったのでは、と思うようになりました。

少年漫画などで、「男子」が変わったり、成長したりする瞬間として「ぉぉぉおーー!!!」と怒るシーンが描かれることが多いなと感じています。自分が変わるときに、社会的に一番安全なアプローチが怒りなんです。「男子らしさ」を一番表現しやすいというか。

言いかえれば、怒る以外の立ち上がり方を許されなかった人たちともいえます。タテ社会のなかで、別の感情で自分が変わることが許されないまま、威圧という表現でしか他者と関われない。

共感、寄り添いというアプローチを許されずにきたのだろうか、と切なく感じるときがあります。
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文=笹島康仁 写真=西田香織 編集=錦光山雅子

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