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2020.03.01 17:00

世界を驚嘆させる日本人曼陀羅作家は「ある夜の奇妙な衝動」から誕生した


「あれ」を立ち現れさせた9.11


少し時を遡ろう。

日本の出版バブルは1996〜97年がピークだったが、語学も堪能だった田内が大手版権エージェント、イングリッシュ・エージェンシーに入社したのは、ちょうどその頃の1998年。その後、競合他社の日本ユニ・エージェンシーから独立して「アウルズ・エージェンシー」を立ち上げた下野誠一郎氏に誘われ、彼の会社に移籍する。


田内によるインスタレーション展示の一例

「2001年9月11日、『アメリカ同時多発テロ事件』が世界を震撼させました。ちょうど、翌月がドイツのフランクフルトで開催される年に1度の、世界最大の版権商談のブックフェア(世界から100数カ国の出版社などが集まる世界規模のイベント)だったのですが、僕自身も新会社の立ち上げで精神的に疲弊してバランスを失った挙句、うつ病のような状態に陥ってしまい、それどころじゃない。僕はもう行かない、会社も辞めると下野氏に打ち明けたんです。

でも下野氏は、『飛行機もホテルも取ったし、大体おまえが行ってくれないと困るから、とりあえず一緒に行こう、なんならホテルの部屋でずっと酒飲んでいてもいいから……。そうだ、スケッチブックを持っていけばいいじゃないか』と引き止めてくれたんです。それで2001年10月、下野氏とフランクフルトに飛びました」

海外に出れば気分も変わる。親しい海外エージェントとの再会もあり、鬱々としていた心にも何がしか変化は生ずるものだ。そして何日目かの夜、とくに親しい米国人エージェントと飲んだ日に「そのこと」は起きた。

「あの頃、『9.11』直後の米国人たちのテンションには一種奇妙なものがあったんです」

実際、9.11直後のアメリカの出版業界では、著者たちが自作に対してきわめて神経質になっていた。すでに契約まで済んでいた本の刊行中止なども多くあったという。たとえば、文芸作品なら、アメリカでは映画化まで見通したうえで小説がプロデュースされることも多く、ハリウッドの好むハッピーエンドにするため著者に結末を書き直させるようなこともあるが、9.11直後あたりには著者がそういった改編を断ることもあった。そして、内容のみならず、装画には絶対にこの絵を使って欲しい、それ以外なら出版しないなど、自作の発表方法に対して敏感になっていた作家たちからの要求で、出版業界は混乱を極めていた。その年のフランクフルト・ブックフェアの会場も、例年にはない張り詰めた緊張感に満ちていたのだ。

「その親しい米国人エージェントと一緒に過ごした夜、ある意味不可思議なオーラを感じた。彼女の声や表情にも前年にはなかったトーンがあったし、おそらく彼女と飲んでいた店にも多くの米国人が居合わせていたから、そこには彼らの持ち込んだ一種異様な緊張感というか、刹那な時間や場所を共有していることに対する特殊な愉悦感や、逆に「泡沫感」みたいなものもあって……。

エージェントと別れ、1人でホテルの部屋に帰って、酩酊してはいましたがふと『あっ、そういえばスケッチブックを持ってきていたんだった』と思い出したんです。引っ張り出してそれに向かったら━━。白いページに、降りてきたんですよね、『あれ』が」


HACO NYC(ニューヨーク)での個展の際の壁画

それが、田内がその後も描き続ける「曼陀羅」━━3Dのような、あの緻密で繊細な、それでいて生命体の胎動を感じさせる不可思議な「パターン」だったのだ。

「もともと衝動のようなものはずっとあって、それを若い頃から浸っていた音楽や、社会に出てからはエージェントの仕事を通して文学などで発散していたのかもしれない。でも、その2001年10月、フランクフルトの夜、僕の中から『あれ』が出てきた。後になってみると、音楽や文学は僕のコアではなく、むしろ絵の『比喩』にすぎなかったのかなと思いましたね。

誰にでもそういう『コア』は必ずあると思いますが、僕は自分のそれに気づくことができてラッキーだったんです。だから、『とにかく飛行機に乗ろう、スケッチブック持ってさ』と言ってくれた下野氏には感謝していますね」


京都にあるデザイン事務所「3min. Graphic Associates」の応接間の襖絵
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文=石井節子

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