ウエスト・サイド・パーク跡地にできたアンドリュー・ジャクソン・ランゲージ・スクール(著者撮影)。
偶然そうなったか、球場の痕跡を残すために、誰かが意図的にそうしたのかは謎だ。あるいは、これは野球の神様の仕業だろうか。
ホームベースが西の端ということは、一塁側が南だ。やはりこの球場では、左投手の手は、南に向くことになる。開場してまもない1887年、シカゴのスポーツ記者がこの球場でサウスポーという言葉を用いたと言われている。
ホワイトストッキングスは、この球場を6年間本拠地としたが、土地の賃料の高騰により、1893年にここから西に数ブロック離れた場所に新球場ウエスト・サイド・グラウンズを建設した。そして、1906年~1908年、1910年の4回、ワールド・シリーズに出場するなど、新球場で黄金時代と呼ぶにふさわしい躍進を遂げた。
1906年は116勝36敗という驚異的な成績でリーグ優勝。その年のホワイトソックスとのワールド・シリーズは同じ都市で行われた初めてのシリーズとなった。このシリーズではホワイトソックスに敗れたものの、続く1907年と1908年は、史上初となるワールド・シリーズ連覇の快挙を達成した。
ちなみに、カブスは、その後2016年に「ビリーゴートの呪い」が解けて優勝するまで、108年間も優勝から見放されていた。
ウエスト・サイド・グラウンズの跡地にも行ってみた。球場跡地には、イリノイ大学メディカル・センターができたが、そこには球場があったことを示す記念碑がある。その記念碑のスポンサーの一つは、ウェイ・アウト・イン・レフト・フィールドという聞きなれない団体だ。
実は、この球場のレフトの後方には、クック郡病院の精神科の病棟があった。
映画「逃亡者」やテレビドラマ「ER緊急救命室」でも登場する病院で、今でも1905年に建設された病院の正面の建物が不気味な雰囲気を醸しながら球場跡地の近くにひっそりと残っているのだが、レフト側の観客の叫び声がフェンス越しに病棟まで聞こえたことから、「ウェイ・アウト・イン・レフト・フィールド」という言葉が「クレイジー」という意味になったとか。
この球場で誕生したスラングを名乗る団体が記念碑のスポンサーになっているのだ。アメリカ人のこうした遊び心がたまらなく好きだ。
クック郡病院(著者撮影)。
1910年代に入ると、球場の老朽化が進み、他球団は鉄筋コンクリート製の新球場に次々と移転する。1915年限りでフェデラル・リーグが解散すると、翌年、カブスは、同リーグに所属していた球団の本拠地だったウィーグマン・パーク(現リグリー・フィールド)に移転した。そして、2014年に開場100周年を迎えた。
この全米で最も美しい球場で、石井一久投手、高橋尚成投手、和田毅投手ら日本人サウスポー投手が登板したことがある。もちろん、彼らの左手は、南を向いていた。
連載:「全米球場跡地巡り」に感じるロマン
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