現在、長野県、千葉県をはじめ、各地で避難所が開設されている。多くの方がTVでその様子をご覧になったことだろう。
15号の影響から自主的に避難する意識が高まり、風雨への対策を講じる人は多かった。受け入れる自治体は事前に発電機を準備するところもあり、一見、対策は周到に進められている感もあった。また、避難所が開設されると支援物資はすぐに集まり、自治体で進む備蓄物資の開放も相まって、災害への学習は進んでいるかに見える。
しかしだ。
避難所は、肉体的、精神的に、少しずつ避難者の方々を追い詰める。主に体育館などが利用されるその場所では、環境が変わる事での過度なストレス、エコノミークラス症候群の発症など、健康二次被害の問題が取りだたされる。経験者の口からこぼれるのは地獄のような劣悪な環境だ。
避難期間は復旧と連動する。いつまでここにいればいいのか、明日からどうすればいいのか、その場所で見聞きする情報は最新なのか、電源・電波はいつ戻るのか、復旧の様子はどうなのか。
(首相官邸HPより)
自治体が用意してくれた温かい毛布に身を包みながらも、「全てが流された。帰るところもない、未来もない。私たちはどうすればいいんですか」 被災者へのインタビューの賛否は別の議論になるが、その言葉に込められた思いは本人以外が察することは不可能だ。考える余裕すらも奪われる中、毛布一枚のみがその人の役に立っている事実。虚しさやもどかしさで私たちも押しつぶされそうだ。
スフィア基準が避難所を変える
災害は世界で起こる。しかし、その後の人の動きや考え方に、日本は大きく学ぶべきところがある。
海外では、避難所はまず「快適であるべき」とする価値観が今や一般的だ。快適であることはいっときでも安心と安らぎを与える。たとえ絶望のふちにあったとしても、明日のことを考えられることができ、犠牲者に思いを馳せ、そばにいる家族のありがたみを感じ、触れ合い、命の大切さを実感することができる。