ここは、国立の天津芸術職業学院。二つのキャンパスを持つ。「天津漫才」を教えているのは狭いキャンパスの方─といっても日本の高校ほどはある─で、メインキャンパスでは舞踏や古美術を教えている。広大なグラウンドに隣接した校舎では、あどけなさを残した少女たちが華北劇の舞踊に励んでいた。教員の容赦ない叱声を浴びながら、何度でも演技をやり直している。
教員も学生も一様に明るく、訪問者には気持ちの良い挨拶を交わしてくれる。私が行き慣れている中国の各所とは雰囲気が違う。
学院の副院長の説明によると、とかくストレスの多い現代社会では、天津漫才や伝統芸能が人々の憩いに絶好。人気芸人には出待ちのファンが詰めかけるし、国から表彰される卒業生を輩出するしで、学院への入学希望者は引きも切らないという。
和んだ心は、天津を出て北京が近づくと一変した。高速の要所要所に物々しい検問所が置かれ、徹底的に荷物検査が行われているのだ。「そうか明日は天安門事件からちょうど30年だからね。中国では6.4と言ってるね」。途端に同乗している中国人の友人の顔色が変わった。「いいですか、絶対にロクヨンとか天安門という言葉は口にしないでくださいよ」。
6月4日。北京の街はいつもと変わらぬ風景だが、じりじりと肌を焼くような乾燥した熱気のなかで、町の角々には相当数の武装警官が警備に当たっている。自動車のクラクションもあまり聞こえない。往来の人々も心なしか言葉少なげで急ぎ足である。得も言われぬ重苦しい緊張感が漂っていた。
今回、私は欧州の歴史から学ぶ米中摩擦、といったテーマで講演し、中国の研究者らと討議を行ってきた。参加者の大半は、旧知の学者やジャーナリストだが、若い新顔も相当数いる。挨拶に近づいてくるので、こちらは当然、名刺を差し出す。だが、彼らは誰一人名刺を持っていない。従前、中国人は厚手で立派な名刺をくれたものだが。「アメリカ的になってきたのかな」、そうではない。お互いにウィチャットを交換するのである。この国はすでに紙の時代にはいないのだ。
討論会後の中国側主催の食事会で、彼らは申し合わせたように同じ感想を漏らした。曰く、トランプ政権を甘く見過ぎた、曰く、米国とガチでやるのは「上兵(上手な戦法)」ではない、中国の面子を立てつつどこで折り合えるかだ、と。そして、「日本とはこれ以上はないような良好な関係を構築していきたい」である。
中国側のリーダー格の学者が言う。「今日の貴方の話で痛感したのは、欧米にも歴史があるということでした。我々にとって歴史と言えば中国の歴史なんです」。したがって、歴史に学ぶとは、中国史に学ぶことなのだ。西洋史は、知識のレベルとしてはあっても、そこからヒントを得たり、現下を見つめ直すという「学び」はあまりない。
別の研究者は、私が言及したナポレオンの大陸封鎖令にいたく惹かれ、関連する研究書を紹介してほしい、と言ってきた。大陸封鎖令とは、19世紀初頭、英国を封じ込めようとナポレオンが取った経済封鎖政策だが、欧州大陸諸国の反発を招き、結果として彼の破滅の原因となったものである。 「中国政府は、毎日、トランプ対策の緊急会議を招集しています」。ジャーナリストと思しき人物が囁いてくれる。私が「中華の誇りは堅持したいが、巨大な熊のようなトランプ大統領に直に攻めかかるのは『下兵』だ、ということですね」と尋ねると、「熊ではない。鰐の怪物です。相手を水中に引きずり込んで牙を剥く」。
夜の北京は何事もないように活気がある。レストランはどこも満員だ。旧知の中国人教授に案内された料理店に入ると、聞いたことのある拍子木が鳴っていた。天津漫才である。日本でいう「営業」だろう。教授がため息をつく。「日本語でいう“ドサ回り”です。でも仕事があればまだ良い方なんですよ。芸術職業学院を出ても、ほとんどの人が芸では食べていけません」。
天津で聞いた話とはだいぶ違う。どちらが正しいのか。教授はニヤリとコメントした。「この世界ばかりは、中国もアメリカも同じだよ」。
川村雄介◎1953年、神奈川県生まれ。大和証券入社、2000年に長崎大学経済学部教授に。現在は大和総研特別理事、日本証券業協会特別顧問。また、南開大学客員教授、嵯峨美術大学客員教授、海外需要開拓支援機構の社外取締役などを兼務。