ビジネス

2019.09.05

「本屋さんが来た!」 |アマゾン ジャパンができるまで 第8回


では、そういった出版流通業界とは親和性がおよそないと思われるIT業界、しかも外資系の組織との提携に、大阪屋という取次が名乗りを上げたのはなぜだろうか。それには、大阪屋の荻田日登志部長が、出版業界ではなくIT業界の出身だったことが大きい。

アマゾンから声をかけられた時、会社に「今です、チャレンジです」と進言したのはほかでもない荻田だった。当時の鈴木一郎社長にも、取次業界ではナンバースリー、しかも関西ベースである自社をもっと大きくしたいという野心と、新しいものを嫌わない心構えがあったようだ。

その2人だけでなく、システムの堀江、調達担当の伊勢部長、書籍物流を一手に担当していた薮内なども、アマゾンに協力することにはポジティブだった。

ともあれ、翌日10時すぎに大阪着の新幹線を自分で予約するように言われ、筒井は、「明日、大阪駅のホームで落ち合おう」と言う佐藤、吉井に促されるまま携帯電話の番号を交換、ついで、「明日は泊まることになるかもしれないので、そのつもりで」と佐藤に言われる。

「帰宅して夫に話すと、『こんな急展開ってある? おもしろすぎるよ』と大喜びでした」と筒井。なにしろ、夕方6時に新宿に来いと言われて行くと、9時すぎまで拘束され、その夜の11時半には内定通知と同時に「翌朝9時に出社しろ」の指示。と思ったら、初出社の日に新幹線の片道切符を渡され、「翌朝は10時に大阪駅で待ち合わせ」とくる。

これをジェットコースター的展開と言わずに、なんと言おう?

「でも夫が、『本当に大丈夫かその会社?』などと言わず、行ってこいよと言ってくれたのはやはり、北京時代、アマゾン・ドット・コムから注文品が確実に届いた、その経験が会社への信頼に繋がっていたからだと思います」

ようやくできたオープン準備会議

さて、これまで、アマゾンの人間にはいくら教えても足りない、という焦燥感もあっただろう大阪屋。ところがその日は、元書店員、しかも業界大手の紀伊國屋書店に長く勤務した、業界の共通言語を持った人間が来る。大阪屋側が「やっと本題に入れる!」と小躍りしたのは当然だ。

そしてその期待感は裏切られることがなかった。なぜなら、その日初めて、ローンチの日までの仕入れをどうするか、版元にはどう協力を仰ぐか、立ち上げの件をどこまで話すのか、在庫情報の連携をどうするか、といった具体的な話ができたのだから。

そればかりではない。日々300点の新刊が発行される書籍のタイトルのなかから、何を在庫とするのか、そして、売れ行きのいい商品を追加する「補充便」をどうするのか。大阪屋の倉庫にある商品と、アマゾンの倉庫で持っておくラインアップが「同じ」では意味がないから、それぞれ何をどれくらい在庫するのか。

そして、深さ(重点主義)か、幅(多品種を少量ずつ持つ主義)か、どちらに軸足を置くのか。大阪屋にも在庫がないものはどう調達するか、そういった話まで、これからはようやくできる。この時の大阪屋は、どれだけ安堵したことだろう。

「今日はいい話ができた、ありがとう、おつかれさま!」と慰労された筒井ら3人も、大阪屋のオフィスから大阪駅まで意気揚々と帰路を辿り、駅ナカの食堂でうまいビールを飲んで解散できたのである。


2001年2月刊行「別冊週刊ダイヤモンド ビットビジネス 大特集 アマゾン ジャパン ウェブサイトから物流まで完全解剖」に掲載された筒井の記事

ようやくできた「分科会」、そして「”大阪屋さま”部屋」

筒井が初めて大阪に行ったこの日が、大阪屋とアマゾンが「塊」でコミュニケーションした最後の日だった。

というのも、それまでの「概観」を掴みあうだけのコミュニケーションからグッと前進して、マーチャンダイジング、サプライチェーン、システムなど、対応する部門ごとの話し合いが始まったからだ。いわゆる「分科会」立ち上げである。


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文・構成=石井節子

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