ところが、である。帰宅した後の深夜11時半ごろ、家の固定電話が鳴った。夕方、面談した北野からだった。用件は、「筒井さんの入社が決まりましたので、明日9時、渋谷のクロスタワーの26F、『エメラルド・ドリームス』までいらしてください」というものだった。
「本屋さんが来た!」
実はこの時の筒井は、既に紀伊國屋書店への復職が決まっていた。しかも、出勤の約束は明朝9時。しかし、受話器を握ったまま状況を夫に伝え、共有した「面白そう」という直観に肩を押されて、筒井は北野にこう交渉していた。
「明日の出社時間を10時に変更してもらえませんか」
翌日、まず紀伊國屋書店へ。名札から何からすべて用意され、それらが並べられた机を前に頭を下げ、「復職できなくなりました」と告げる。まさか「アマゾンに行きます」とは言えないし、「どうしても都合で、」で押し通すしかなかった。そしてその足で10時に渋谷へ。クロスタワーの指定階に上がり、「エメラルド・ドリームス」の張り紙を探す。
筒井が部屋に入って行くと、何人かがパーティションの角に集まっていた。彼らが一斉にこちらを見て、「本屋さんが来た!」と言ったことを覚えているという。社長の長谷川らに声をかけられて集まった商社系のメンバーだった。
筒井理枝氏。ローンチ前、唯一の出版流通業界経験者だった。
挨拶も済まないうちに、1人がつかつかと近寄ってきて「明日、大阪に行ってください」と言いながら、6枚つづりの東京-大阪、新幹線の回数券を1枚、やぶって手渡すのだ。見ればそれは、片道チケットではないか……。
この頃、アマゾン ジャパンのローンチメンバーたち、とくにサプライチェーンの担当者であった佐藤将之、吉井清などは、取次の大阪屋と打ち合わせするために、本社のある大阪に通い、書籍の返品方法、支払いの仕方をはじめ、「そもそも書店経営とは」の心得を伝授されていた。大阪屋には東京支社もあったものの、システム部隊や、裁量権のある人物は大阪にいたからである。
実は、出版流通業界は「メーカーが小売店に直接納品しない」という特殊な業界だ。その他にも、「出版流通業界だけ」の摩訶不思議なルールは数限りない。そもそも「取次」そのものが出版業界固有の業態だ。支払いの発生タイミングも違うし、納期も異なる。
だいたい、注文していない商品が「見繕いで」納品されるのだ。「配本」という、業界固有の特異な制度である。その代わり納品されてもすぐには支払わなくていい、逆に注文してもいつ来るかわからないし、納品の確約や予告もない。
しかも、チェーンの展開がある一方、特殊な「地域縄張り」もあり、今のように、異業種からの参入や混合などもない時代だ。サプライチェーンの世界で腕を磨いてきたが、出版流通にはまったく門外漢の吉井や佐藤にとっては、毎回、まさに「ありえない」話ばかりだったのである。