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2015.03.24 10:00

『あるときの物語』 タイム・ビーイングと向き合うために。


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日本の美点や欠点を、外国人の視点を通じて発見するテレビ番組が人気だという。曰くタクシーのサービスが異様に丁寧で驚いたとか、冠婚葬祭にお金を包むことの意味がわからないとか……。「へぇそんなもんかね」と納得することもあれば、「いやいやいくらなんでも勘違いでしょう!」と突っ込みたくなることもあり。ルース・オゼキ『あるときの物語』を読み始めたとき、実はまさしく後者の反応をとった。パタンと、そこで本を閉じることもできたかもしれない。でもそうしなかった。よかった、と思う。ここまでの熱量を込めて丹念に織り上げられた物語は、久しぶりに読んだ気がする。

 カナダ西岸の緑深い島。片田舎の小さなコミュニティならではの暑苦しい人間関係にどこかでうんざりしつつも、夫と猫一匹とで静かに暮らす作家・ルースは、ある日、浜辺に流れ着いたジップロックの袋を拾う。びっしりとフジツボがついたその袋に入っていたのはハローキティをプリントした弁当箱。中には日本の女子中学生ナオの日記が入っていた。太平洋を挟み、また日記を書いた時点とそれを読む時点という時間のギャップを挟んで、ルースとナオ、ふたりの女性の物語が展開していく。

 物語の冒頭、「こんにちは!」と元気よく始まったナオの日記は、「わたしの名前はナオ。わたしは有時(タイム・ビーイング)」と続く。若い女子の日記で、いきなり道元の時間概念である。あまりに不自然じゃないか?
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 “日本人は今も正装はちょんまげ”的勘違いじゃないのという思いはぐっと抑えて、ここは我慢のしどころ。ナオがその概念を知ったのは尼僧である祖母を通じてだということがすぐに明らかになるし、何よりそこに綴られる、彼女の送る日々の熾烈さが、読者をグイグイと引き込んでいく。

 帰国子女のナオは、編入した日本の中学校でひどいイジメに遭う。IT企業で活躍していたがリストラされて不毛な就職活動を始めた父、家庭にうまくコミットできない母、学校を逃れてさまようナオが出会うデートクラブやメイドカフェの人々……。いろいろな問題をはらんだ現代日本の世相のなかで、“死んでしまいたい”と思いながらもなんとか生き延びるナオの日々。次第に、時空を超えてルースの日々に影響を与えていく。

 作者は、アメリカ人を父に日本人を母にもつ人物。日本滞在も長く、2010年に曹洞宗で得度している。群を抜く描写力と展開力で読者を捉えて離さないエンターテインメント性ある物語である一方、ナオの日記が冒頭で宣言した通りに道元の“有時”を小説にする壮大な試みともなっているのは、そんな背景があってのことだ。

 クラスメートに架空の葬式を行われ、それをネット配信されるなどといった悲惨な目に遭いながらも、どこか達観しているナオ。折にふれ彼女に仏教観を授ける祖母たる僧侶ジコウの存在が、物語の中でも、そしてナオの人生にとっても大きな役割を果たしているのに興味をそそられて、南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』を手にとった。ルース・オゼキと同じく曹洞宗の禅僧である直哉和尚が、現代ならではの悩みへの立ち向かい方をやさしく指し示す一冊だ。いじめ、自殺、親子といったキーワードがこちらにも出現する。

 確かに『あるときの物語』の人々は、みなどこか“生きにく”そうなんである。ひょっとして私たちの一人ひとりも、端から見ればそう見えているのかもしれない……。ハッとさせられたとしたら、私たちももうナオの“有時”の一部だ。

文=阿久根佐和子

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