情けないことに、白トリュフの香りが充満する厨房の片隅にただ突っ立っているだけの日々を数日送ったあと、意を決した。よし。なんでもいいから手を出してみよう。とりあえず、今の現場の流れを妨げない作業はなんだろうと厨房を見回してみる。
きりりとした表情でガス台の前でまさにリゾットの仕上げに入っているリッリアーナ。前菜用カルパッチョをものすごいスピードでスライスしているこっちのおばさん。あっちでは、もうひとりのおばさんがなんだかよくわからないけどお湯の入ったボールに浸かっている大量のマスカットの皮を、ひとつひとつ丁寧にむいている。
うん、これなら足を引っ張ったところで大事には至らなさそうだ。そそそと横に忍び寄って、小さな声で言ってみる。
「……ファッチョ イオ(私、やります)」
おばさんは一瞬手を止めてチロッと私を見ると、初めてにっこりと笑った。
「ファイ トゥ?(あなた、やるの?)」
「ふふふ、いいわよ」と言われ、彼女の手元を見ながらそのスピードに必死でついていくと、私が訊くより早く、「これはね、ファラオーナ(ホロホロ鶏)と一緒にソテーするのよ。その前にこうしてコニャックに漬け込んでね……」と、突然つくり方を早口で唱え始める。
メモを取る間もなく、今度はもう1人のベテランのおばさんに呼ばれる。
「ちょっとー、こっちにも来てくれない? これ手伝ってほしいんだけど。ねえねえ、なんだっけあなたの名前。リ、リ、リ……」
「リツコです。でもリッツでいいです!」
すると背後から突然声をかけられる。
「じゃ、リッツ。はい、これ被りなさい」
振り返ると、ガス台の前にいたはずのリッリアーナが、厨房スタッフがかぶるお揃いの衛生帽を持って立っているではないか。こうして私の修行は始まった。
1日の終わりの密かな楽しみ
それからというもの、とにかく死ぬ気で手と体を動かした。ヘーゼルナッツの皮をひたすらむき続ける気の遠くなるような作業から、ジャガイモの皮むき、スライサーの掃除、迷惑のかからない仕事にはなんでも手を出しつつ、彼女たちの料理の行程を目で見たままにノートに走り書きしていた。
すると、あっちから「リッツ、この作り方教えてあげるわ」と声がかかり、今度はこっちから「リッツ、これ、しっかり味見して」と声がかかる。
毎回のことだけど、有給休暇をまとめて取得してイタリアに来ているだけの私には、休憩をしている時間はない。リッリアーナと2人のおばさんたちは、シフト制で厨房に代わる代わる入っていたけど、私は朝いちばんの仕込みから深夜までぶっ通しで、自分のどこにこんな体力があったのだろうと自分でも不思議なくらい働いた。
長っ尻の最後の客が帰らないまま、厨房では床掃除が始まる。そんななか、モップを洗いにひとり寒空の下に出る時間が、実はひそやかな楽しみだった。
それは、深々と冷える夜更けに、丘の頂きのカステッロから見下ろす闇の世界を独り占めする時間。昼間のぶどう畑とは一変した、深い深い闇に包まれた丘陵のひとつひとつの丘の頂きに、まるで空から星が落ちて来たみたいに、ぽつり、ぽつりと瞬く村の灯り。
フーッと深呼吸をすると、吐いた息が真っ白になって、神聖な闇の空へ吸い込まれていく。日付が変わるまでくたくたになって働いた1日の最後に、神様がくれるご褒美のような瞬間だった。