菊正宗といえば、誰もがその名を知る、日本酒の代表的なブランドだ。創業は江戸時代初期の1659年。360年近い歴史を誇る。辛口の酒で、水と米と米麹から、昔ながらの作業で約4週間かけて造り上げる「生酛造り」を守り続ける日本酒メーカーとして知られる。そんな歴史ある日本酒ブランドに新風を吹き込もうとしているのが、社長の嘉納治郎右衞門氏。嘉納社長は、130年ぶりに立ち上げた新ブランドの「百黙」、瓶詰め樽酒発売50周年を期に本醸造から純米へと切り替えた「純米樽酒」、従来のパック酒にはない香りと味わいを実現した「しぼりたて ギンパック」と、これまでの菊正宗とは一風変わったブランドで新機軸を打ち出した。その一方で、菊正宗ならではの味わい、受け継がれた伝統を守り抜く姿勢を貫いている。2017年6月の社長就任時には、菊正宗当主の由緒ある名跡「嘉納治郎右衞門」を襲名した。「伝統と革新」の狭間で新しいブランドの価値を模索する嘉納社長に、日本酒の未来像について話を聞いた。
「最近の菊正宗さんは頑張っているね」の声が励み社長に就任して感じる伝統の重みは、ないと言えば嘘になりますが、社長になったからといってプレッシャーはかかっていません。
襲名に関しては、脈々と受け継がれている会社のすべての関係者が理解し、受け入れてくれています。ですので、非常にスムーズな社長交代だったと自身でも受け止めております。
私たちには「菊正宗しか飲まない」という熱心な愛飲者、ファンの方が多いと自負しております。そういう方たちに対して、「菊正宗らしさ」をきっちりと守っていかなければならない、ぶれてはならないという風潮は社内にも貫かれています。
ただし、時代の流れの中で新しさや多様性が求められるようになり、変わらないことへの不安も出てきます。
「頑張っているね」と言っていただいたのは、新しいチャレンジをしているタイミングでもありましたので、伝統にあぐらをかかない姿勢を評価していただいていると思っております。
嘉納家に伝わる七つの家訓が、菊正宗成長の鍵だった私が尊敬する経営者として思い浮かぶのは、祖父の嘉納毅六です。
祖父は高度成長期という時代背景もあり、菊正宗を「家業から企業へ」とシフトさせ、作業効率化や生産性向上を掲げて成長させていきました。
その時に祖父は家と会社を切り分けました。それまでは家の行事と会社の行事はかなり近しく、正月には会社の幹部が自宅へ年始の挨拶に来て、家の人間がもてなすという光景があったと聞いていますが、私の幼少の頃は、そうした昔ながらの家業的な雰囲気はありませんでした。
しかし、古い家柄ということもあるのでしょうが、我が家には七カ条の家訓が残されています。
すべてそれに則って経営しているというわけではないのですが、嘉納家に生まれた人間としては、重要なものです。
嘉納家家訓七カ条一、父祖の業を専守すべし
二、必ず投機的事業を避けよ
三、時勢を見抜いて勝機を逃すな
四、主人は雇人と共に働け
五、勉めて公共事業に尽くせ
七、雇人はわが家族と思え
従業員に対して「共に働け、わが家族と思え」というように、ファミリービジネスにとって重要な観点が2つも入っています。従業員と共にあることが会社として大切なことなんだと教えてくれます。
一の「業を専守すべし」にも、選択と集中という精神が込められています。江戸時代の嘉納家は、材木商や網元などの商売をしていた傍らで、酒を造っていました。さまざまな商いの中から酒造業に特化していったことから、メインのビジネスを大切にしろ、という教えが伝わってきます。
投機的な事業をしない、勝機を逃さない、あるいは「公共事業に尽くせ」という、社会的責任や地域貢献を大事にする視点も、家訓といいつつかなりビジネスに寄ったものだなと感じています。
「日本酒に人生を賭ける意味があると思った」大学生の頃、将来の進路について悩んでいる中で、家業である日本酒業界は全く想像もできないし、自分にできるのか、興味を持てるのかといった思いが頭を巡っていました。ちょうどバブルが弾けた頃でしたが、まだまだ華やかさが残っていたので、日本酒業界に飛び込むことに躊躇していたのは事実です。
そんな時、あるお店で偶然、自社製品との思いがけない出会いがありました。菊正宗の燗酒を飲んだ時、率直に「思った以上にいいな」と感じたのです。
創業家である自分にも日本酒に対する誤解、イメージのギャップがあったくらいだから、同じ思いを持っている人は多くいるでしょう。そうしたマイナスのイメージを変えていく、日本酒の価値を感じてもらうために時間と情熱を注いでいきたい、と思うようになりました。日本酒は自分にとってやりがいのある、人生を賭ける意味があると感じたのです。
父からは、「家業を継げ」と言われることがなかったのですが、阿吽の呼吸というか、私が「家業を守ることを考えたい」と伝えたところ、家族会議を経て、日本酒業界に身を投じることになりました。
ただし、社会経験も乏しいことから、「小売を先に勉強してみろ」ということになり、イトーヨーカ堂に就職しました。
イトーヨーカ堂では、鮮魚部で商売の基礎を学ばせていただきました。特に取り扱いが難しい生鮮食品の分野で、原料の仕入れ、加工、販売、接客、利益管理といった商売に関する一連の流れを身につけました。
生鮮食品に関しては小売りに限らず、メーカーであり、サービス業でもあるといったいろんな側面を持っていましたから、商売の難しさ、奥深さを学び取りました。
特に、魚を捌くのは難しかったですね。捌く技術を学んで、「技術が商品価値を決める」ことを実感しました。
仕入れるときの目利きもそう。相場感や時期をにらんで、丸魚で売ったほうがいいのか、それとも切り身にしたほうがいいのか、刺し身がいいのか、見極める目を持たないといけません。
イトーヨーカ堂という日本を代表する小売の大企業に身を置くことで、経営トップのメッセージがどのように現場へ降りてくるのか、肌感覚で体験することができました。
でも、そのメッセージの根幹って、「変化への対応」「基本の徹底」と、毎年変わらないのです。なぜ変わらないのか不思議だったんですけど、そこには、トップはぶれないメッセージを発信し続けることが大切なんだと、自分がその立場になった時に改めて感じたんです。組織を率いる時、ベクトルを強めるにはぶれない信念を押し出すことが必要なんだと。
今、わが社の掲げているビジョンは、「伝統と革新による新たな価値創造」です。このメッセージを掲げてから1年ほど経ちましたが、社員のみなさんもよく理解してくれています。新しいチャレンジをすることで得られる成功体験を感じてくれ、スピード感を持って目標に到達しようという意識を持ってくれています。
それでも当初は、各論になってくると意識の違いが見えていました。新しいチャレンジをすると、どうしても現状を否定せざるを得ない状況が生まれます。その時に今までやってきたことを捨てなければならない。
特に、今まで守ってきたモノづくりの価値観を多様性の観点で見直し、新しいチャレンジに踏み出そうとする時には、現場とすり合わせし、理解を深めるために時間をかけてコミュニケーションをとるようにしています。
この数年で、「百黙」「ギンパック」など、従来の菊正宗のイメージからは外れた商品のポートフォリオを作って、商品ブランドの幅を広げています。
こうした新機軸を打ち出していくときには慎重に、丁寧にコミュニケーションを取っていきました。こうした新しい商品は、香り豊かな酒であったり、やや甘口の酒であったりと、ある意味従来の菊正宗のモノづくりのあり方を否定するものだからです。
コミュニケーションで心がけているのは、自分の意志はストレートに伝え、率直な意見に耳を傾けることです。
コミュニケーションを深め、小さな成功体験を重ねていくうちに、社員の中に、「新しい方向性を信じてもいいかな」という思いが芽生えてきている、と思っています。あるいは、社員のみなさんが変化を楽しんでくれていると感じていますね。
私たちのモノづくりの先には、お客様の笑顔があります。そうしたお客様の笑顔や声を聞くたびに、私自身とても嬉しいですし、現場にいる人間も肌感覚で喜びを感じているんじゃないかと思っています。
小さな成功体験の一方で課題も見えてきて、よりお客様に喜んでもらうために創意工夫を重ねる。そうした好循環が、会社の中で生まれつつあります。
百黙
樽酒
しぼりたて ギンパック
新機軸「百黙」「樽酒」「ギンパック」に込めた思い
菊正宗は、日本酒ブランドの中でも保守的なイメージがあるでしょうし、昔ながらの日本酒を嗜む愛飲者の方たちから支えられているというブランドイメージが強いと思います。もちろんそういうお客様を大事にしながら、ブランドをブレイクスルーさせていくには、従来のブランドイメージと対極のものを作っていかないと既存ブランドの停滞を招きます。
ブランドイメージと対極の酒を造って知見を積み重ね、既存のブランドの進化を促していかなければなりません。そうすると、伝統の中で受け継がれた知見や技術も生きてくるのです。
長年培われた技術は、ブランドを守るためだけにあるのではなく、新しいモノづくりにチャレンジするために使われてこそ生きてきます。その先には、既存ブランドへの波及効果も期待できます。そうした好循環を生み出す狙いが、新商品に込められているのです。
欧米の人たちの関心に合わせた日本酒づくりを海外での日本酒ブームに対応するため、菊正宗ブランドも海外進出を本格化させています。現在、海外市場は年130〜140%の割合で売上が伸びていますが、特に中国での市場拡大には引き続き期待しています。
海外では、健康という側面で日本食や日本酒に対する評価が非常に高く、特にアジア圏では米由来のアルコール飲料である日本酒への理解度が高いことから、これからもマーケットは拡大していくと思われます。
マーケット規模としてはまだまだ小さいですが、欧米も伸びしろが高いと見ています。2018年9月に、フランスのパリで「百黙」のお披露目会をさせていただきましたが、関心度は非常に高いと感じました。
欧米の人たちは、私たちとは違った視点で日本酒を捉えています。日本では製法や加工技術が訴求ポイントになるのですが、欧米では、ワインと同じく日本酒の原料や、その土壌がどうなっているのかという点に関心があるのです。ですので、百黙も、欧米に対してはワインで言うところのテロワール(原料を生み出す土地の性質)の良さをアピールしています。
日本酒はワインと違って熟成(エイジング)されたもの、ヴィンテージものはまだまだ少ないですが、欧米の人たちの関心の持ち方を見てみると、そういった商品を作り出す必要も感じ始めています。
海外進出は時間もかかりますし、コミュニケーションをとって日本酒への理解を深めていかなければなりませんから、一朝一夕で成果は出せません。それでも日本酒への関心が高まっていますから、私たちだけでなく、日本酒業界全体で、関係者が連携していくことで展望が開けると考えています。
「人の記憶に寄り添う酒でありたい」
今後の菊正宗を考えていく上で、まずは経営者として社員の雇用を守り、菊正宗のブランドを守ることが第一です。日本を代表する日本酒ブランドの一つという矜持を持っていくのが大事だと思っています。
そして守っていくと同時に、変えていく姿勢も持ち続けます。「攻撃は最大の防御なり」ではないですが、攻めていく気持ちは忘れません。
何年か前、菊正宗ブランドに関してお客様から意見を投稿してもらった時、印象的なことがありました。
私たちは日本酒のメーカーとして、生酛造りや原料の米といったモノづくりへの思いを込めて造っています。
しかし、お客様が菊正宗に感じる価値は、違ったところにありました。
「菊正宗は祖父が愛したお酒です」「父と酌み交わした思い出の酒です」「尊敬する上司と飲みながら教えを請うた思い出があります」といった、人生の節目に、大切な人と過ごした一時に共にあったお酒だったんです。
それぞれの人の時間や記憶に寄り添うお酒としての菊正宗が、これからもお客様にとって「しあわせな時間に彩りを添えていくお酒」としての役割を果たしていければ、酒造りに携わる私たちにとって、これ以上の喜びはありません。
嘉納治郎右衞門(かのう・じろえもん)◎1975年3月10日、兵庫県神戸市生まれ。大学卒業後、1997年、株式会社イトーヨーカ堂入社。2001年、菊正宗酒造株式会社入社。2017年6月、代表取締役社長就任 十二代嘉納治郎右衞門を襲名。
「百黙」動画
「樽酒 マイスターファクトリー」動画
「しぼりたてギンパック」動画