写真は「人に何かを伝える」ためのもの
──奥山さんにとっての「写真の立ち位置」ですか。
はい。僕にとって写真は、ビジュアル表現ではなくて「人に何かを伝える」「人と何かを共有する」ための術だ、とその時に思ったんです。
しかもそれは、ものすごく少数の相手、常に「対ひとり」か「対数人」に向けて伝えるためのもの。多くの人のために、という気持ちはさらさらないです。
──なるほど。
多くの人に届けたいという意識だけで作られたものは、大抵の場合、狙い通りに多くの人に深く刺さることはありません。大概、「刺さる」というより「見える」だけに終始します。
例えば広告ポスターって、ほとんどがそういうものですよね。多くの人に「見せよう」と思えば思うほど、ただ「見える」。視覚上ポスターが目に入るだけ。
最初から「こんな統計があります」「だいたい世の中の人はこんなこと思うよね」「こういうものが今評価されているよね」という大多数の平均的思考を元にして作られたものは、どうしたって角を丸くせざるを得ないケースが多かったり、どこか既視感のあるものになりがちだと思うんです。
人間はそれぞれに違うのに、それでも多くの人が同じように言うこと、というのは「常識」だったり、言い方を変えれば「正しいけれどつまらない」ということだったり。結果、沢山の人が見たけれども、数日後には次の新しい情報に上書きされてしまう。
僕は、"伝える"というのベクトルの始点と終点にいる人が少なければ少ないほど、純度が高く、強くなりやすい、と思っています。「自分のこの気持ちをあの人に伝えたい」という強く、そして個人的なベクトルこそが、結果的に多くの人の心に残るのだと思っています。それは……湖に投げた石に波が立って、その余波が広がっていくように。打ち込んだ点は1点でも、その余波を周囲が受け取っていく状態です。
『Girl』
──奥山さんの写真が、脳裏から離れない理由がわかった気がします。
例えば、「みんなこういう歌詞が好きだよね」みたいに統計をもとに書かれたラブソングと、「あの人に届けたい」という想い一心で、誰か1人が誰か1人のために書いたラブソングがあったとして、結果的に多くの人の心に深く残るのは、後者だと思うんです。数字で言うのもよくないですが、80点くらいのものなら、統計などを元にしても作り出せるのかもしれません。
けれど、500点のもの、つまり国民的な爆発的表現というのは、いつだって、誰か個人の強い気持ちからスタートしていると思うんです。もちろん、少人数で作り出したものが良いものだ、と言っている訳ではありません。起点、スタート、作品の根幹に、個人の強い気持ちがありたい、ということなんです。
そこから、その起点となった気持ちが、アウトプットまでの過程でどこまで綺麗に残っているか。それが勝負だと思います。一緒に作る人によっては、その起点を、もっともっと強く、且つ伝えやすいものにしてくれる人もいるかもしれませんよね。それが複数人で共に作品を作ることの醍醐味です。
「プロ」ではなく「極端なアマチュア」
──いま、たくさんの仕事のご依頼がきていると思うのですが、仕事を選ぶ基準も、奥山さんが「伝えたい」と思えるかどうかなんですか?
そうです。僕は自分のことを、世間一般で語られる意味の"プロ"ではなく、極端なアマチュアだと思っています。だから、撮影の依頼があった場合に、自分が撮れるのかの基準は、「この人のために撮りたい」と思える相手がいるかどうか。誰か「個人」のためにしか撮れないから。
それは、誰でもいいんです。クライアントの方でも、被写体の方でも、アートディレクターの方でも、ヘアメイクさんでもスタイリストさんでも。好きだ、と思える人たちのためであれば、逆にどんな内容でも撮ります。
──クライアントからの要望にはどう答えるのでしょう?
自分の意見とは異なる要望があった場合は、その要望の理由をしっかりと理解してから撮るようにしています。つまり、特に明確な理由のない"ルールなので"みたいな事柄に対しては、混乱してしまうことが多いです。
──あくまでも、奥山さんが伝えたい写真なんですね。
そうですね。極力、嘘はつきたくない。写真って簡単に嘘をつけてしまうだけに。けれどだからこそ面白いっていうのもありますよね。