「戦前、石坂泰三が第一生命の社長を9年間務めていたことがあります。そのとき、会社は大躍進して昭和7年に業界2位になります。当然、次はトップの座が見えてくる。矢野は石坂たちがトップに照準を合わせたと思い、自宅に呼び、『業界一位などということはやめてください』と告げるのです。量の拡大は相対的な価値でしかなく、長い目で見ると業界のためにならない。最大を目指すのではなく、絶対的な価値は最良を目指すことです。最良を求め続けることは終わりなき旅であり、ゴールがないので過酷ですが、経営にとって非常に重要なことなのです」
トップラインだけを追い求めれば、経営を見誤る。ボトムラインを成長させるために、品質を追い求めていく。顧客のニーズに対応し続けるために、一人ひとりの社員が価値を創造していく。一見、「それをやって何の得があるのか」と思えるような、本業と関係ない地域貢献活動に職員たちが参加するのも、「地域と共に成長しよう」という意識の変化からだという。
昭和51年、渡邉は新入社員として町田営業部の最前線に配属されたとき、地元採用の女性営業職員から、「あんた、大学を出たのに、なぜこんな会社に入ったの?」と言われたという。仕事は矛盾を感じることばかりで疑問の連続だった。
そのとき、上司が教えてくれたのが、「京大式カード」である。梅棹忠夫のベストセラー『知的生産の技術』に登場するカード式のメモ帳である。渡邉は疑問や矛盾を書いては課題ジャンル別の箱に入れて、矛盾を解決していったという。
渡邉は20代のとき、手帳の片隅にこんなメモをした。「変化は摩擦を生み、摩擦は進歩を生む」。誰が言った言葉か、記憶はない。しかし、その言葉をいつの頃からか、座右の銘とするようになった。
「企業経営も組織運営も常に矛盾の塊です。矛盾に満ちていることが常態なのです。常にそれを改革し続けることしか解決方法はありません」
経営革新とは、実は困難のときにこそ為されなければならない。97年から始まった旅の、それが答えである。
「保険」とあだ名された創業者、矢野恒太
第一生命を37歳で創業した矢野恒太には「統計の父」という顔がある。国が正しい政策判断をするためには、正しい統計に基づいた事実をベースにするべきという考えから、昭和2年に『日本国勢図会』を刊行。公益財団法人「矢野恒太記念会」は、現在も『日本国勢図会』の他、『データでみる県勢』などを刊行し、学校の副読本として親しまれている。
岡山県に生まれて、医学校を出た矢野は、日本生命の社医を経て、保険に関する論文を多数執筆。高橋利雄著『変革の盾』によると、27歳のとき、原稿用紙1,000枚の大作「生命保険原論」に取りかかり、その最中にドイツの文献からゴータ生命を知ったという。理念だけは知っていた相互会社と、ゴータ生命の実例が結びつき、彼はドイツ遊学を決意する。
また、論文を高橋是清や安田善次郎など当時の名士たちに送り、面会を申し込んだ。安田に請われて共済生命保険を改組し、支配人になる。だが、ドイツ遊学から帰国すると、理想とする相互主義と安田善次郎の考えが相容れず、矢野は退職。
農商務省に保険課が新設されることになり、矢野は初代保険課長になった。そこで彼は相互会社の規定を盛り込んだ保険業法を起草したのである。
保険課長として、乱立する保険会社の粛正を行って一年。結局、矢野が理想とする保険会社は現れず、矢野は農商務省を退職。自ら保険会社を設立する。1902年、日本で一番最初の相互会社「第一生命」はこうして誕生したのである。