そう質問すると、ツボに刺さる経営者は多い。社長たちが30代から40代のサラリーマンだった頃、業種によって多少の時間差はあれ、難しい局面に立たされた時期が97年前後だからだ。
第一生命の渡邉光一郎はテーブルの上で80ページ近い資料の束を開くと、折れ線グラフを指さした。97年前後から複数の線が一気に降下している。渡邉は自ら97年のことを語り始めた。
「当時、私は企画・調査部門にいて、歴代社長の悩みを目の当たりにしてきました。のちに自分自身が社長になるとは思っていませんでしたが、非常に大きな財産になったのが、このときを基軸とした思想体験なんです」
「我々は北極のシロクマだ」
2014年、戦後初めて第一生命は保険料収入などで、日本生命を抜いた。しかし、渡邉の実績は、むしろ経営思想の旅を始めたことと言っていい。「クオリティジャーニー」と呼ばれる旅が始まった97年に時計の針を戻そう。
この年、社長に就任した森田富治郎は、ことあるごとに社員にこう言ったという。
「我々は北極のシロクマである」
氷が溶ける前に新たな陸地を探さなければ、シロクマは絶滅するという意味だ。
バブル崩壊後、株価の下落で97年、日産生命が破綻。生保業界が破綻処理を進めている間に、逆ざやで信用不安に陥った生保が次々と倒産し、4年間で計7社の生保が破綻した。欧米の市場関係者たちから一目置かれた「ザ・セイホ」は、一気に信頼を失墜させたのだ。
また、第一生命が株主であった山一証券、北海道拓殖銀行、長銀、日債銀も続けざまに破綻した。
「森田は眠れない日が続いたと思いますよ」と、渡邉が振り返る。
「当時、私は決算対応をやっていましたが、3年で1兆5,000億円の減損処理をしているのです。周りは次々と破綻するし、目の前にあるのは恐怖でした。でも、この時代は森田じゃなければ務まらなかったと思います」
この時期、森田は意外な行動を取っている。渡邉に依頼をして、系列のシンクタンクからデータを集めさせた。それは新車登録に始まり、百貨店、酒類、外食産業、食料などの国内販売と、生命保険保有契約高である。