しかし、一介の医師が、どうして“医療ベンチャー”を発想することができたのか。背後にあったのは、鍵本の“反面教師”となった父親の存在である。
「父は血液内科の学者でした。しかし、基礎研究を続けても、それを生かして薬にするまでには至りませんでした。一方、父が交流していた海外の学者たちは治療法を確立して薬を生み出していた。その違いが何なのか、ずっと疑問だった」
鍵本は、そんな疑問を解くべく、大学卒業後、シリコンバレーに渡る。スタンフォード大学の友人の住む寮に居候しながら目の当たりにしたのは、生み出された技術に投資して、技術を進化させたところで他企業に売却したりライセンス供与したりするバイオベンチャーというシステムだった。新しい研究が実用化されていくダイナミズムを、鍵本は肌で感じ取ったのだ。
しかし、起業したバイオベンチャー“アキュメンバイオファーマ”のビジネスは順風満帆には運ばなかった。アメリカに子会社をつくり、1年をかけて、眼科手術に使う染色剤である眼科手術補助剤の治験を行ったが、ベンダーが治験用製剤の管理ミスをしていたことが発覚、安定性試験を一からやり直さなければならなくなったからだ。
折しも、リーマンショックの真っただ中。追加的資金調達は不可能だった。アメリカでの開発は失敗に終わった。
それでも、鍵本はあきらめなかった。今度は、ヨーロッパのパートナーと共同開発を行い、無事、製品化に成功する。だが喜びも束の間、次は、冒頭の、特許訴訟に巻き込まれた。裁判所の密室で、朝から晩までドイツ語、オランダ語、英語で緊迫した論証が続き、一点でも負ければ特許は消え去る。夜、判事が下した判決は「特許維持を許可する」というものだった。
「この勝利は単なる一製品の勝利ではない。“日本のアカデミア初のバイオ技術”の世界での勝利だったんです。この日は偶然にも、35歳、人生の折り返し地点の誕生日。敵地の寒い海岸を一人歩きながら、人生をこの闘いに捧げようと決心しました」
闘いは続いた。訴訟に勝った鍵本が裁判所に他企業の製品の差し押さえ命令を出させると、他企業は特許を無効にさせようとまた別の損害賠償も起こしてきた。訴訟合戦が泥沼化する中、鍵本は、ある証券マンからこう訊かれる。「社長、医師に戻らないんですか? 普通にそろばんを弾いたら、眼科医の方がずっといいでしょう」。
「きっぱりと“戻る気はありません”と答えました。3つの三日月が、それだけ僕に強い初心を植え付けてくれた。窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、逆に、初心を達成する覚悟は強くなるばかりでした」
鍵本は特許を守り抜き、眼科手術補助剤をデファクト・スタンダードにすることに成功、医療界で“時の人”となった。