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2016.07.24

財閥の同族経営で、成否を分けたのは何か?[富豪のトリビア45 -Part9]

堤義明

富豪たちはいかにして巨万の富を手にし、何を考え、どう使うのか。大金持ちの生態を解き明かす「45のトリビア」を、12回に分けて紹介する。第9回目は、名門一族に関するトリビア。

Q 財閥一族の同族経営で、成否を分けたのは何か?

江戸時代から続く富商・三井家をルーツに持つ三井財閥は、日本最大の財閥として世界 にその名を轟かせていた。しかし戦後の財閥解体後、傘下企業は再結集に遅れた。敗因のひとつに、分家の多さから来る戦前の経営の混乱があった。創業者・三 井高利の遺児は9軒の分家を立て、明治時代にはさらに増えて「三井11家」と呼ばれた。分家が経営に口を出したことで、専門経営者が同族を敬遠したのだ。 同様の問題を抱えていた安田財閥や浅野財閥も再結集に失敗した。

一方、戦後に傘下企業をグループとして再結集するのに成功したのは、住友、古 河、そして三菱だ。3つの財閥に共通するのは、住友、古河、岩崎姓の経営陣は社長と副社長らごくわずかで、そのほかは生え抜きの社員を登用したこと。そう した環境が社内の競争力と一体感を生んだ。(菊地浩之)

Q 富豪一族を支え、時には滅ぼす「家訓」とは?

〈額に汗して得たるものにあらざれば真の財産にならず。すべからく投機事業と会社事業を排斥せよ〉

江戸時代、日本有数の地主だった本間家(山形県)は、投機を禁止する「家憲」を掲げていた。明治時代、商売の自由度が増して本間家も事業の多角化や共同経営を行うチャンスはあったが、それには株式の取得が必要になる。株式投機と投資は違うのだが、「家憲」を遵守して投資を一切行わず、本間家単独の出資による銀行業、倉庫業、農地経営にとどめた。本間家は時代の変化についていけずに没落してしまう。

一方、家訓を破って成功をおさめた家もある。三井家は鉱山業への投機を禁じていたが、1891年に三井銀行理事に就任した福沢諭吉の甥・中上川彦次郎が三池炭鉱を取得して三井鉱山合資会社を設立。時代の潮流に合わせた工業化を進めた。
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文=Forbes JAPAN編集部

この記事は 「Forbes JAPAN No.24 2016年7月号(2016/05/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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