屋内が自然光で溢れる本社は、建築家の黒川紀章が設計、24年前に竣工した。「いずれ世界の富裕層が買い付けに来るようになる。プレハブでは会社がチープに見えるでしょう」背伸びして社屋に投資したのは、「世界のミキハウス」を目指していたからだ。
木村の父は、大阪で縫製工場を営んでいた。作っていたのは、「ワンダラー・ブラウス」と呼ばれた安価な衣類。大量に作ってアメリカに輸出し、1枚1ドル(当時360円)で売る。日米貿易摩擦を象徴する商品だ。
工場には、中学を卒業して集団就職してきた若い工員が集まる。夜間の洋裁学校に通いながら働く「金の卵」たちだ。安い労働力で、大量にブラウスを作れば、アメリカが買い取ってくれる。木村が大学にいた1960年代後半、家業は順調に売り上げを伸ばしていた。
だが、世の中には変化の兆しが見え始めていた。「中卒で縫製をする人材は先細り、日本の工場で作っている安いブラウスの注文は、いずれ新興国に流れるのではないか」家業に将来性を見出せなかった。
「日本発のブランドを作りたい」
家業を次男に継がせようと、父の元へ連れていった。「親父、こいつが後継ぎたいと言うとんねん」父は怒った。「勝手に決めるな」昔の親父は怖い。「勘当されました」
71年、26歳で起業した。間もなく父は他界。木村の予想通り、家業は厳しくなっていった。会社を起こしたといっても、従業員は社長の木村一人だ。まずは画用紙で内職募集のポスターを作った。洋裁学校で技術を習得した女性たちに、ブラウスやズボンなど得意なアイテムをサンプルとして縫ってもらった。
木村は「日本発のブランドを作り、付加価値で勝負しよう」と、全国の高級子供服専門店をまわる。だが、注文は入らない。
「冷静に考えたら、“押し売り”していたことに気がつきました。ちょうど女房が出産した時期で、収入がないし、何とか成功させなくてはと、気持ちが焦っていたんですね」
80年代に入ると「an・an」「non・no」などの女性誌が、デニムのファッションを取り上げるようになっていた。木村はデニム素材のズボンを軸とした商品を作り始める。ファッションという付加価値が消費者に受け、「MIKIHOUSE」は子供服のトップブランドになっていく。起業から10年が経つ頃には、協力工場にOEMでの生産を依頼する規模にまで拡大していった。