カルチャー

2026.10.28 15:45

なぜ200年前のシルクに勝てないのか 細尾真孝と北野宏明が探る「革新の原点」【第1話】

アノマリーは、問いの形をしている

優れた発見者は、この瞬間に目をそらさない。

advertisement

ふつう、自分の前提と食い違うものに出会ったとき、人はそれを例外として脇に置く。たまたま良い一枚だったのだろう、保存状態が良かったのだろう、と。そうやって、世界観を守る(科学哲学者トマス・クーンが「アノマリーの棚上げ」と呼んだ反応に近い。後述の補助線を参照)。だが細尾は、逆をやった。「なぜ」という問いを、そこから手放さなかった。 なぜ、二〇〇年前のほうが美しいのか。この問いを握り続けたことが、彼を一二〇〇年の織物の、さらに上流へと連れていく。

ただし、ここで彼は一つの罠を避ける。「江戸に帰ればいい」という結論に飛びつかないことだ。

「だからといって、江戸時代に立ち返ればよいわけではありません。現代にはより高度な構造設計や多様な糸の開発が可能な技術がありますし、全てを手作業で再現するのは、現代の経済合理性とも両立しません。そこで重要になるのが、江戸時代の美しいシルクを現代のテクノロジーでリバースエンジニアリングし、その本質を解析したうえで、いまの織物に取り込むことです。江戸時代の着物の中に見出した未来の可能性を、現代の技術と融合させ、次の時代の織物を生み出していく──そうしたイメージを持って取り組んでいます」(WWDJAPAN「HOSOOとソニーCSLが挑むシルク革命」2026年2月)

advertisement

リバースエンジニアリング──工学の言葉だ。完成品を分解し、その設計原理を逆算する。細尾は、江戸のシルクを「すでに失われた未来の技術」として扱う。懐古ではない。過去の中に未来が埋まっている、というこのシリーズの主題が、第1話のこの一点ですでに芽を出している。

では、その〈アノマリー〉の正体は何だったのか。なぜ、技術が進歩したはずの現代が、素材で過去に負けたのか。答えは、布そのものにではなく、布の背後で起きた百年の地殻変動にあった。

発見論の補助線:トマス・クーンのアノマリー

「アノマリー(anomaly)」は、科学哲学者トマス・クーンが『科学革命の構造』(1962年)で用いた語である。クーンによれば、ある時代の科学者は共有された枠組み(パラダイム)の中で研究を進める。パラダイムに合わない観測(アノマリー)が現れても、人はすぐに枠組みを捨てず、例外として棚上げしたり、補助的な説明で辻褄を合わせたりして、既存の世界観を守ろうとする。アノマリーが棚上げできないほど積み上がったとき、はじめて危機が訪れ、パラダイムそのものが転換する。

細尾が江戸のシルクに「やられた」のは、この構図にそのまま重なる。だが、より深く効いているのはクーンのもう一つの概念──通約不可能性(incommensurability)だ。クーンは、異なるパラダイムは共通の物差しで比較できない、と論じた。同じ「良い糸」という言葉を使っても、明治以降のパラダイム(均一・白・効率)と、江戸のパラダイム(多様な美)とでは、その語が指す中身がまるで違う。細尾が受けた「なんだ、これは!」というショックの正体は、自分の物差し(現代の複雑性・技術)では測れない美に出会ったこと──二つの通約不可能な美の体系が、布一枚の上で衝突したことだった。

次節で細尾がたどるのは、まさにこの「物差しの入れ替わり」の歴史である。

次ページ > 美の評価軸が、百年で入れ替わっていた

タグ:

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事