男性が抱える「アンドロゲンのパラドックス」
アンドロゲンは、頭髪については薄毛・脱毛の原因となるが、ひげや体毛に関しては、毛を濃くする方向に作用する。皮膚科医は時にこの現象を、「アンドロゲンのパラドックス」と呼ぶ。毛包が存在する体のそれぞれの部位が、まったく同じホルモンからのシグナルに対して、逆の反応をしているように見えるからだ。
このパラドックスは、進化に関する有力な説を裏付ける最適な例だ。アンドロゲンは、若い男性の体にさまざまな作用を及ぼす。筋肉質になる、声が低くなる、繁殖相手を得るための競争に関連する形質が発達するといった、思春期になると起きる変化は、このホルモンの作用によるものだ。
アンドロゲンのシグナル発出を増幅させる遺伝子は、体が大人になる時期にはメリットとなり得るが、数十年後には、その代償を払わされることになる。
こうした現象を、進化生物学者は「拮抗的多面発現(antagonistic pleiotropy theory)」と呼んでいる。すなわち、単一の遺伝子が複数の形質を持ち、その一部は若いころには有益だが、のちに望ましくない結果が生じる、ということだ。
自然選択では、生涯の後半になって生じるコストよりも、早い時期に得られるメリットの方が重要性を持つ。なぜなら、生き残り、若いうちに繁殖することに有利になるような形質の方が、より確実に次の世代に伝えられるからだ。
生物学者は、後半生は「選択の陰(selection shadow)」に隠れている、と表現することがある。この見方によると、男性の脱毛は、状況に対する適応ではなく、わざわざ修正するほどの理由がないゆえに放置されてきた副作用、という色が濃くなる。
医学的に言えば、脱毛に実害はほとんどない。髪の毛を失っても、それが直接的にその人の生存や繁殖能力を脅かすわけではない(ただし、脱毛を他の疾患と関連づける研究も一部にはある)。このように、コストが小さく、生涯のなかで遅い時期に発現する形質には、消滅を促す選択圧がほとんどかからない。
薄毛は男性にとって社会的シグナルになるのか?
2つ目の、より推測に基づく部分が多い説は、薄毛には社会的意味が生じる、とするものだ。この説のもとになったのは、1996年に『Ethology and Sociobiology』に掲載された論文だ。研究者は、生え際の後退が、年齢や人間的成熟を示す、嘘偽りない証として機能しているとの説を提唱した。
こちらの見方に基づけば、薄毛は男性が若さゆえの血気盛んな競争に夢中になる時期を過ぎ、より賢く、落ち着いていて、脅威になりにくい人物であることを示すシグナル、ということになる。
薄毛の男性に対して、年長で、(状況によっては)支配的、あるいは社会的に成熟しているという印象を持つ人たちのあいだで、この説はそれなりに支持されている。とはいえ、こうしたイメージが、ヒトの進化を形作るほどに重要な意味を担うことがあったのか? という問題になると、かなり不確定だ。
こうしたシグナリング理論(個体間のコミュニケーションがどのように進化し、維持されるかを説明する理論)は、興味深いが証明はされていない、というのが一般的な見方だ。「遺伝子が及ぼす作用の副産物」とする説をベースに、そこに追加される可能性がある二次的な説と考えられている。この説は、性選択の広い枠組みにはマッチするものの、全体としては未確定の状態だ。


