ライフスタイル

2026.09.24 14:15

「まちのケーキ屋」の減少は、私たちの社会に何を意味するのか?

stock.adobe.com

このような情報を踏まえると、ケーキ屋さんが売っていたのは、商品そのものだけではなく、気軽な「口実」だったのではないか、といえる気がしてきました。

advertisement

訪問の口実、集まる口実、実家に帰る口実、仲直りの口実、何でもない平日を少しだけ特別にする口実。夕食に誘うには予定を合わせたり、食事を準備したりする必要がありますが、ケーキを囲むには、ケーキ屋さんの前を通りかかれば良かった。人と気軽に向き合い、お互いの存在のありがたさを再確認し合う。それを気軽におこなえる装置だったのです。

ここで妹の「愚痴」にもう一度思いを馳せると、彼女が懐かしんでいるのは、ケーキ屋という業態そのものではなく、それが支えていた特定の家族のかたちかもしれない、とも考え始めました。

共働きで遅くまで子どもをどこかに預ける家庭で育った私たちには、仕事帰りの親がときどき、不在だった時間の埋め合わせをするように、ケーキの箱を抱えて帰ってくるという風景がありました。多様性が魅力的に謳われる今では選ばないかもしれない昔の家族のかたち。そこに含まれていた温かさに彼女はノスタルジーを感じている気がします。ケーキ屋さんはそれを長らく支えていた存在だったのでしょう。

advertisement
stock.adobe.com
stock.adobe.com

このようなケーキを介したパーソナルなエピソードは、文学における有名な「菓子の記憶」にも呼応します。

ハンブルは同書の中で、プルーストの『失われた時を求めて』のマドレーヌの場面を引いています。ある冬の日、普段は口にしない紅茶を勧められた語り手。貝殻の形をした小さなマドレーヌをその紅茶に浸して口に運ぶと、幼い頃、叔母が同じようにマドレーヌを紅茶に浸して与えてくれた記憶が、何の前触れもなく全身を貫くように蘇る、というあの場面です。

ハンブルは、この記憶を呼び起こした力は、マドレーヌという菓子が食事の主役ではなく、ほとんど「そこにあるかないか」程度の軽さしか持たない、ごく些細なものだったからではないか、と指摘します。語り手は空腹を満たすためにそれを食べたのではなく、ほんの少しのお茶に浸った欠片を口にしただけで、記憶に押し流された。ハンブルはその経験の核心を“ephemerality(儚さ)”と表現しました。

同じ章では、対比としてディケンズ『大いなる遺産』に出てくる、ミス・ハヴィシャムの結婚式のケーキも引かれています。何十年も食卓に放置され、朽ち果てていくパブリックで記念碑的なケーキ。一方は儀式化された巨大な象徴、もう一方はごく個人的で、一瞬で消えてしまうような、小さな記憶の引き金です。

「親が抱えて帰ってくるケーキの箱」は、どちらかといえばマドレーヌに近いものです。特別に立派なものでも、長く残るものでもないけれど、小さな箱を開ける感覚や、家族の声のトーンなど言葉にも記さないような断片こそが、強く呼び起こすものがある。妹が本当に恋しがっているのは、そのような不意に思い出される儚い温かさなのでしょう。

一方の私にとっては、ケーキはどこか「絆創膏」のようなものにも見えます。装飾的で大げさな存在が、社会や関係性の断絶を一時的にでも「見て耐えうる」ものにし、人の注意や誰かの時間といった、本来つかみづらいものを一時的につなぎとめやすくしている。とはいえ、そういった前時代的で表面的な役割が揺らいでいるからこそ、「ケーキ」は新たに何をどう引き止めていくのかを再考する面白さも含んでいます。

「口実」というラグジュアリーの一面を散策してみたい気分になっています。イタリアでも菓子が口実となるような場面がいくつもあるように思いますが、今回の話題、安西さんはどのようなことを考えますか?

次ページ > 自販機の缶コーヒーに似ている?

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

タグ:

連載

ポストラグジュアリー -360度の風景-

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事