参加する外国人たちも様変わり
こうして続けられた「国際交流みこし」だったが、富澤さんたちは、時代とともに参加する外国人たちが様変わりしたと感じていた。「もともと韓国の人が多く、次に中国の人、そしてベトナムの人が増えるなど、国籍もそうだが、昔は貧しい就学生というイメージだったのに、最近ではお金に不自由していない留学生ばかりになった」
富澤さんたちは「国際交流みこし」のために近隣の祭りで屋台を出すなどして資金を集めている。なぜそこまでして続けるのか。富澤さんはこう話す。
「この街で生まれ、育ち、仕事をしているのだから、やるしかない。子供たちの世代のために地元のために何かできないか。そう考えるのは当然のことです」
東京都の統計によると、2023年7月現在、豊島区の在住外国人比率は10パーセントと、11.7パーセントの新宿区に次いで高い。半数を占めるのが中国籍で、ベトナムやネパールなどが10パーセント弱である。
筆者がふとした縁でこのユニークな活動を知り、関心を持ったのは理由があった。
話は1980年代にさかのぼる。前回のコラムで「いかにして池袋は『ガチ中華』の町になったのか」というエピソードを紹介したが、当時、学生だった筆者は東池袋の一地区で社会調査をしていた。
1960年代以降の高度成長期に地方から上京してきた若年労働者の受け皿だった東池袋4丁目から5丁目では、1980年代になると、韓国やフィリピン、バングラデシュなどのアジア系ニューカマーが住み始めた。
筆者は、同地区の木賃アパート街に住む外国人を訪問し、「来日の動機」や「日々の生活の苦労」「日本に対する思い」などをヒアリングした。ラーメン屋の主人に「近所に外国人居住者はいないか」と聞き出し、いきなり部屋を訪ねたこともあった。
アパートの扉を叩くと、不安顔の外国人が現れ、「入管の人間が来たのかと心配した」と言われたりもした。訪問される側に対する配慮や想像力の欠けた、なんという無知で無邪気なふるまいだったろうと思う。
一方、地域の人たちの話も聞いた。いまでも印象に残っているのは、ある明治生まれの町内会長(当時)が口にした「祭りの神輿の担ぎ手は誰にすべきか」というのが地域の課題だという話だった。会長には、神輿は地元の人間が担いでこそ、との思いがあったのだろう。
その当時、筆者が思ったのは、アジア系ニューカマーたちがかつての地方出身者と同じように地域のコミュニティに参加し、神輿を担ぐことは想像しにくいということだった。彼らは生活に追われ、同じ若者といっても、文化的なバックグランドが違うからである。