第3回は、映画『勝手にふるえてろ』や『ウェディング・ハイ』の監督として知られる大九明子氏と、「脳機能」と“笑い”との関係についての研究を行うキリンホールディングス株式会社キリン中央研究所の所長、矢島宏昭氏が語り合った。
芥川賞作家・綿矢りさ氏原作の映画『勝手にふるえてろ』や『私をくいとめて』、お笑い芸人バカリズム氏が脚本を務める『ウェディング・ハイ』といった話題作のメガホンを取ってきた大九氏は、芸人を志していた過去を持つ。「芸人を諦めた」と挫折経験を語るが、だからこそなのか、“笑い”に対しては真摯な姿勢を崩さない。日常に潜むおかしみをオフビートに映し出し、人間の持つ多面的な魅力を立体的に描き続けてきた。
一方、そんな大九氏と対談するのは、湘南アイパークに研究拠点を置くキリンホールディングス株式会社キリン中央研究所の所長、矢島氏だ。キリン中央研究所では、「ヘルスサイエンス領域」の研究を行っており、特に「免疫」「腸内環境」「脳機能」の研究に重点を置いている。なかでも「脳機能」の研究においては、2021年に吉本興業や静岡県浜松市、近畿大学らと産官学共同での“笑い”に関する臨床研究結果を日本で初めて発表。関連して脳トレアプリをリリースするなど、「脳の健康」を守るための新しいアプローチに挑戦し続けてきた。
ヘルスサイエンスという観点から、キリンが“笑い”やエンターテインメントを研究する意義とは一体なんなのか。ふたりの対話の中から、「創作」と「研究」、一見かけ離れた世界を歩んできた両者に共通するウェルネスへの想いが浮かび上がってきた。
「体にいい商品をつくるだけでは売れない」が研究のきっかけに
大九明子(以下、大九):今回対談させていただくにあたり、キリン中央研究所ではヘルスサイエンスの一環として、吉本興業などと組んで“笑い”の研究をされているとうかがいました。ただ、私の中ではそれらの要素がなかなかつながらなくて(笑)。ですので、今日は授業を受けるような気持ちでワクワクしています。
矢島宏昭(以下、矢島):おっしゃる通り、「キリン」というと飲み物のイメージを持つ方も多く、そもそも「ヘルスサイエンス」という分野が広く認知されてはいないですよね。しかし、キリン中央研究所の前身の研究所では1980年代には医薬事業立ち上げにつながる研究開発が行われていました。私自身も入社直後には、医薬品開発に関連する研究に取り組んでいました。その後、生活習慣病や高齢化による認知症といった社会問題が取り沙汰されるようになり、食を通じたウェルネス(健康)や、ヘルスサイエンス領域の研究開発と事業開拓を目指すようになりました。現在は「未病」という考え方が浸透しつつあります。食習慣などを通じていきいきと生活ができるよう、私たちは創薬とは違ったアプローチを通じてお客様への価値創出をしていきたいと考えています。
そうしたなかで、「体にいいもの」の商品開発を目指してきたわけですが、一方で、「特定保健用食品」のように効果が科学的に裏付けられた商品を販売しても、必ずしも大ヒットするわけではないこともわかってきました。“商品だけでは売れない”──商品を手に取っていただくきっかけとして、楽しみという要素も重要ではないかと考えました。いろいろと模索しているうちに、“笑い”というものが食習慣に対する意識づけみたいなものに役立つかもしれない、というアイデアが、研究員の中から出てきたんです。
キリン中央研究所所長の矢島宏昭氏
大九:“笑い”に関する研究は「商品を手にとってもらいたい」という発想から生まれたんですね。それで思い出したのが、撮影現場で若い俳優が、家庭用ビールサーバーを買ったらすぐにひと樽空けてしまったと楽しそうに話していたことがあったんです。値段としては割高なものの、食品のおいしさだけでなく、蛇口を開ける楽しさも含めて支持されてるんですよね。
矢島:キリンでも家庭用ビールサーバーは好評いただいています。これにも、食とエンターテインメントを組み合わせた要素が含まれていると言えるかもしれませんね。
エンターテインメントが持つ“効用”の可能性
矢島:大九さんは、どのような経緯でエンターテインメント業界に入られたのですか?
大九:学生時代に近隣の大学生たちでコント集団のようなものを組んでいたことがきっかけでお笑いの世界にハマってしまって、大学卒業後、芸能事務所である人力舎の養成所「スクールJCA」に1期生として入学しました。そこで最初のライブに出演した際、会場でドッとウケまして。“笑い”が起きたことに、ものすごい快感を感じたんです。その快感が忘れられなくて、これを一生の仕事にしようと夢中になったとたん、創り続けること、面白い人間であり続けることの難しさに直面してしまって……。そのときに自分の才能の限界には気づいていたものの、とにかく続けたくて、悶々とした20代を過ごしました。当時、唯一の癒しの場所が映画館だったことから、逃げるように映画美学校に行き、シナリオの勉強をするようになりました。
なので、“笑い”に関しては、私は完全に挫折した人間なんです。だから映画の世界に入っても、10年くらいは“笑い”を遠ざける暮らしをしていました。見るのも聞くのもつらくて。でも、振り返るとそのせいでずっとどこか不機嫌だったんですよね。“笑い”という特効薬があると知りながら、それを摂取しなかった。やっと自分の中で「お笑い解禁」ができたのは、10年くらい経ってからですね。映画の世界を自分の道だと確信が持てるようになってようやく、バラエティやお笑いライブを見るようになった。それはもう、浴びるほど見ましたね。今、自分の作品に“笑い”を取り込みがちなのは、憧れもあるんだと思います。
矢島:笑うことが免疫にポジティブに働くといった研究結果も報告されていますし、私たちも脳をはじめ、笑いが体にさまざまな変化をもたらしていると考えています。そもそも、もし人類にとってエンターテインメントがなんの役にもたたないものなのだとしたら、現代まで存続してこなかったと思います。
大九:おっしゃるとおりですね。
矢島:先ほど触れていただいたように、キリンでは「脳機能」研究のひとつとして“笑い”を研究していて、2021年には吉本興業の漫才師さんにご協力いただき、コンテストなどでも評価されて一般的にウケている“おもしろい漫才”と、一生懸命演じられているもののまだそこまで実績のない“おもしろくない漫才”を見た際の脳の活動量の比較対照実験を行いました。
実験の結果、“おもしろくない漫才”を見た場合と比較して、“おもしろい漫才”を見た場合には、漫才を見ている時には交感神経が活発となり、見終わった後には副交感神経の活動が回復してリラックス状態になるなど、研究者も驚くほど如実な変化を見せました。緊張状態からリラックス状態に移行するという点で、サウナの“整う”という感覚に近い結果と言えるかもしれません。
大九:おもしろいですね。その実験は、舞台の上にいるコンビの漫才を生で見たのですか?被験者以外にもお客さんはいたんですか?
矢島:いえ、実験では動画を使用しました。それぞれの漫才を同じ時間見ていただき、脳の活動の変化を調べました。
大九:なるほど。なぜお聞きしたかというと、「ひとりでいるときの笑い」と「人といるときの笑い」ってたぶん違うだろうなと思ったんです。漫才って、笑いやすい板(舞台)と笑いにくい板ってあるのではないかなと。
矢島:確かに、研究をデザインしようとする際には、なるべく条件を揃えて両者の比較ができるように実験デザインをしてしまいますが、でも本当は、笑いの起こる条件はそのときそのときで違うんですね。おっしゃるとおり、実際の舞台で周りに観客がいたら結果は変わってくるかもしれません。隣の人が笑ったら、それだけでおもしろいと感じることもあるでしょう。キリンは飲料が主要事業ですが、「おいしい」も人によって異なるように、おもしろさにも人によって好みがあって、比較的幅のある感覚なんだと思います。
大九:私も映画祭でお客さんと一緒に自分の映画を見ることがありますけど、国や劇場、お客さんの入り具合でびっくりするくらい反応が違うんですよね。だから、脳科学としてデータを蓄積するにしても、“人の感覚”についてフラットな条件を設定するのはすごく難しいだろうなと感じます。視聴する人の機嫌の良し悪しでも変わってくるはずですし。
矢島:そうした意味で、笑いに関する実験手法はまだ完成しているとは言えないのだと思います。基本的に答えがひとつの自然科学的な研究とは少し異なり、笑いには心理学や社会行動学的な要素も含まれているはずで、より学際的な発想が必要となってくるのだろうと感じます。
「見たこともなかったことに触れられる」オープンイノベーション環境に身を置く
矢島:キリン中央研究所は2022年4月より、他拠点からの移転により湘南アイパークにおける研究開発拠点を拡大しました。いま、ひとつの企業の中で研究開発を完成させるということがなかなか難しい時代になってきています。イノベーションは、全く異なる用途で使われているものを組み合わせて、新しいものや使い方を考える、という発想から生まれるものが多いと言われています。そうすると、一社だけで画一的な考え方や情報に染まっているのではなく、自社の建屋を出て、見たこともないようなものができるだけ多くある環境、知らなかったことに触れられる環境に身を置こうということになったんです。先ほどの実験方法のデザインひとつとっても、さまざまな視点を知ることができることで、考え方が広がるのではないかと期待しています。
大九:最先端の研究者の方がここでどんな風に交流しているのか、すごく覗いてみたいですね(笑)。
矢島:もうひとつ、若い人の経験や成長という意味でも、単独で研究をするよりプラスの面が大きいと思っています。うちの若い研究員が、入居企業である異業種の社長さんにメンタリングをしていただく、という貴重な機会をいただいたりもしています。これは行動力のある研究員が自ら飛び込んで実現したケースですが、自ら動けばそんなこともある、といういい事例になりました。湘南アイパークは、共同研究で成果を出すだけでなく、いろいろな方と触れ合って経験を積み成長できる場ですね。
大九:映画業界だと、異業種どころかほかの監督がどんな段取りで撮影しているのかもわからないんです。たまに別の監督の現場とかやり方についてスタッフに聞くんですけど、あまり教えてくれなくて……。映画監督は100人100様の進め方があって、交流がほとんどないのでうらやましいですね。
世に出してみないと分からないからこそ、常に不安な思いで作っている
大九:今日お話をうかがって、私と矢島さんは少し立ち位置が似ているのかも、と思いました。映像の世界にせよ研究の世界にせよ、必ずその先にはヒットが求められていて、多くの企業や製作委員会は、矢島さんや私たちに7割の人がおもしろい、おいしいとするモノを要求してきます。でも、「おいしい」も「おもしろい」も、人や場面によって変わるし、計算や科学だけでは簡単には解き明かせないものなんですね。映画産業やキリンホールディングスのいち構成員である私たちは、自分がいきいきしていけるものをつくり、最低限人を傷つけず、願わくは、世の役に立っている……そんな立場なのかなと思います。
映画監督の大九明子氏
矢島:そうですね、もちろんお客様の嗜好調査や商品開発への工夫はしていますが、最終的には世に出してからのみなさんの反応に尽きるところはありますね。さまざまなデータを基にしても、作っている間は常につかみどころのない不安がついてまわります。ですから、研究でいい結果が出たらそれで終わりではなく、お客さまのもとへどう届けるのか、といったところまでを考える必要があります。
大九:私の場合、「お客さんに喜んでほしい」という気持ちももちろんありますが、極論を言えば、自分が作りたいから映画を作っている、というのが本音のところです。決して計算して笑いを作ったりはしていなくて、自分がおもしろいと思うものを真摯に作るように心がけています。むしろ、「見た人を傷つけないように」ということのほうを、気を付けているんです。だから、「すっごくおもしろいんで絶対見てください」とは決して言えなくて、ドラマでも映画でも、毎回祈るような気持ちで作品を世に送り出してます。
矢島:自分もいち消費者だったり、観客だったりになり得るからこそ、より楽しく、おもしろいものに惹かれるし、そこにチャレンジしたいと思うのかもしれないですね。
私たちは食品だけに留まらず、様々な形でお客さまの健康に貢献できるように日々ヘルスサイエンスに関する研究を進めています。少子高齢化が進行するこれからの日本では、健康年齢をいかに長くできるかということが、ますます大きな課題となってくるはずです。「元気に長寿を全うする」ための手段として、エンターテインメントを含めたより多様な観点からヘルスサイエンス研究を進めていければと考えています。
──“おもしろさ”や“おいしさ”の創り手であるふたりは、多くの人々に受け入れられるエンターテインメントを追求し続けながらも、人間の感覚の多様性と真摯に向き合い、消費者や観客が商品に出会うその瞬間にまで、思いを馳せていた。
人類の長寿化と社会の少子高齢化が進み、一人ひとりの健康寿命の延伸が社会課題となる時代に、エンターテインメントを通じた「個のウェルネス」は、新たな健康のあり方を提示し、実現するのかもしれない。
湘南ヘルスイノベーションパーク(湘南アイパーク)とは
2018年4月に開所した、日本初の製薬企業発サイエンスパーク。現在は、製薬企業のみならず、次世代医療、AI、ベンチャーキャピタル、行政など、大小さまざまな約150の産官学が集まっている。今回の対談に出演した矢島氏のような多くのイノベーターたちが、それぞれのアプローチで人々の健康やウェルビーイングに関する研究を進めるほか、多様な視点やソリューション、技術を持ち寄ることでヘルスイノベーションの創出を目指す場となっている。
矢島宏昭(やじま・ひろあき)◎キリンホールディングス株式会社R&D本部キリン中央研究所所長。キリンビール株式会社基盤技術研究所に入社・配属(1997)後、医薬品や健康機能性食品の研究開発に従事。同社研究開発推進部(2014)、知財戦略推進部(2018)を経て、2022年から現職。
大九明子(おおく・あきこ)◎映画監督。学生時代からコント集団に所属し、大学卒業後は1度就職したものの4カ月で退職。芸人養成学校スクールJCAの第1期生となり、お笑い芸人を志す。その後、制作者を目指し、映画美学校に入学。学内シナリオコンテストで選ばれた脚本をもとにメガホンをとった初監督作『意外と死なない』(1999)は一般公開もされた。2007年の劇場長編デビュー作『恋するマドリ』(脚本も)以降、『東京無印女子物語』(2012年)、『ただいま、ジャクリーン』(2013年)、『でーれーガールズ』(2015年)などを監督。綿矢りさ氏原作の映画『勝手にふるえてろ』(2017年)では監督・脚本を手がけ、東京国際映画祭コンペティション部門での観客賞受賞に続き、同氏原作『私をくいとめて』(2020年)で東京国際映画祭史上初2度目の観客賞を受賞した。2022年は、ドラマ『失恋めし』『シジュウカラ』、3月には映画『ウェディング・ハイ』などを監督し、精力的に作品を作り続けている。
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