「プラン75」の申請者の最期を迎える場所が、簡易ベッドの周囲をカーテンで区切っただけの非常に簡素で寒々とした設備であるところには、このシステム全体の冷酷さが凝縮されている。そこは単に、人間を無事死なせることに特化した場所だ。ここまで来て翻意する人もいないため、その場所の無機質で非情な作りが外部に漏れることもない。
以前取り上げたSF映画『ソイレント・グリーン』にも安楽死制度が描かれていたが、用意される個室もベッドもゆったりと大きく、壁面を覆うスクリーンには最後に見たい映像が流れ、好みの音楽を聴きながら永遠の眠りにつく様子が描かれていた。「プラン75」では、そんな最後の尊厳を守るための”サービス”は皆無である。
いよいよその施設に長距離バスに乗って向かう道中、窓の外に流れる陽を受けてきらきらと輝く木立の風景を、ミチは目を細めて眺める。見ているわれわれも、死を前にした人にとって自然はどのように映るのだろうかという思いにとらわれる。
だが施設であるトラブルが起こった結果、最後にミチは一人で再び自然の広がる景色の前に立つ。死に向かった往路でも生き延びた還路でも、変わらずすべてを照らしながら沈んでいく太陽。残照を浴びてくっきりと浮かび上がるミチの生のかたち。生きている手触りを確かめるように、ふと口をついて出る愛唱歌「りんごの木の下で」。
事態の最終的な収拾を描かないまま、画面を横切ってミチが消えたところで映画は途切れるように終わる。現実的に考えれば、ミチの帰る場所は失われており再出発できるかは不明だし、ヒロムは厳しい処分を受けるだろうし、マリアはその巻き添えを食い、瑤子は悩んだ末に辞職するかもしれない。
「プラン75」ほど明らかではなくても、多くの人々が自然に受け入れている社会の仕組みや従っている規範は、人々の生を多かれ少なかれ矯正して成り立っている。仕組みや規範に何らかの綻びが出た時、初めて、われわれはヒロムや瑤子のように立ち止まり、ミチのように自分の生のかたちを確かめるのだ。


