「希望の物語」をどう築くか
——あなたは、恐怖ではなく「希望の物語」でポピュリズムに対抗すべきだと論じている。だが、希望を語る政治家は、素朴で現実離れしていると一蹴されかねない。信頼に足る希望の物語を、どう構築すればいいのか。
その懸念は、真剣に考慮しなければならない。人々が生きる困難の上にふわりと浮いただけの希望は、ただ失敗するのではなく、侮辱として響く。だから、信頼に足る希望が真っ先にすべきは、楽観を語ってみせることではない。語り手が問題をはっきりと見据えている、とまず示すことだ。
経営学者のフランシス・フライは、信頼は三つの土台の上に成り立つと論じている。
真正性――あなたは名乗る通りの人物か。
論理――あなたに実際その仕事ができるか。
共感――あなたは本当に私を気にかけているか。
この三つが、すべて揃っていなければならない。一つでも欠ければ、あるいは欠けていると感じられれば、信頼は崩れる。そして信頼を欠いた希望は、まさに素朴で演技的なものになってしまう。
近年の力強い例は、いずれもこの三つを同時に満たしている。2019年のクライストチャーチのモスク襲撃のあと、ニュージーランドのアーダーンが語った「彼らは私たちだ」。わずか三語、揺るぎない道徳的な明晰さ、そして数週間のうちに銃規制法が変わった。宣言ではなく、行動によって示された共感だ。
2025年のマムダニのニューヨーク市長予備選は、選挙運動というより一つの「うねり」のように感じられた。彼はどこへでも足を運び、誰とでも語り、過ちを犯せばそれを取り繕わずに認め、評論家たちが予想もしなかった差で勝った。
2017年の私たちの選挙運動では、「頑固な楽観主義者」と名づけたフレームを軸に据えた。物事が苦しいときでも前を向いて進み続ける、実際的なオランダ市民。それを、ただ文句を言うだけの「傍観席で怒鳴る者たち」に対置した。ウィルダースの名を挙げる必要すらなかった。有権者は、自分が選んでいると意識する前に、自分をどちらかの側に置いていた。
信頼に足る希望には、欠かせないことがある。有権者は、イデオロギーによって過激化するのではない。拒絶によって過激化するのだ。見てもらえず、聞いてもらえず、自分が暮らす国から切り捨てられた、という経験によって過激化する。だから、「この国は大丈夫だ」と告げることから始まる希望は、そうでないと知っている者には残酷に聞こえる。何が壊れているかをひるまずに名指しし、その上で信頼できる前進の道を示すことから始まる希望は、リーダーシップとして響く。要は、希望をスローガンではなく、一個の人格にすることだ。


