デニーン氏は、視察した日本の小学校の給食現場で、子どもたちが互いに役割を果たす姿に感銘を受けたそうです。リベラリズムによって失われたものを、そこで見出したと。私自身は、日本で小さい頃から求められる規律を、どちらかと言えばネガティブに捉えてきました。でも母国アメリカでは個人主義が行きすぎた結果、共同体の規範や規律が顧みられなくなったと感じている思想家から見ると、一定の規律のもとに、みんながそれぞれの役割を全うしている、あるべき姿と映る。どちらの評価が正しいということはないと思います。
これは「究極的な状況で、人はどう協力できるのか」という問いにもつながってきます。日本では、被災地での行動がよく褒められます。しかしこうした規律ある行動は、なんとか耐え忍んでいれば、最終的には国が助けに来てくれる、という前提があるから成り立っている面もあるのではないか。国自体が破綻したとき、本当に人々は助け合うことができるのでしょうか。
デニーン氏が日本の給食現場に見出した日本も、もしかしたらもう日本の大半で失われた、美化されたものなのかもしれません。いまの日本社会を見ると、だんだんと自助に振り切れて、連帯が弱くなっているようにも感じます。
真山:「被災地が褒められる」でいいますと、95年の阪神・淡路大震災後をリアルで体験しました。戦後初めての大震災でもあり、みな、救済の仕方がわからなかった。学校、体育館に避難所はできても最初はカオスでした。ところが、次第に、声の大きい人、人脈を持っている人が連絡をして、調達を始めた。コミュニティではなく、自助の働きですよね。一方、2011年の東日本大震災では、阪神・淡路のときよりもはるかにあっという間に「町」的なものができた。食料ほか、必要なものが集まってくるのが速かったんです。
新型コロナのパンデミックの時も、自粛というマニュアルのもとに、それぞれが自分たちで考えて行動した。これもまさに自助です。
逆に言えば、日本では、自助とは何か、コミュニティとは、コモンとは何かが明確ではない。「国が破綻した時、人々は助け合うことができるのか」という問いに対しては、やはり、三牧さんのご指摘のように自助と連帯の両方が必要になる。国が生き残るための交渉を一生懸命しなければならないとなった時、外交ベタな日本は、誰と、どのように連帯すべきか考える必要があります。



