ジョン・ジアマッテオは、おもむろにスマートフォンを取り出した。アプリを起動し、認証情報を入れる。その先は、軍や政府が使う水準の暗号化空間だという。ここに侵入することはできない、と彼は言った。
かつて世界中の役員のポケットに収まっていたBlackBerryは、端末としては市場から消えた。だが、その内側で動いていた暗号化のソフトウェアは、AndroidやiOSという他社の器に移し替えられ、いまも生きている。ハードウェア事業は終わり、中核だけが別の器に移って残った。目の前のデモは、この会社が持つ価値の縮図でもある。
BlackBerryの名前を聞かなくなって久しいが、実は消えたのではない。名前が見えなくなっただけだ。現在の同社の価値は、スマートフォンの画面からは見えない場所で生まれている。
世界およそ2億7500万台のクルマの中で、ドライバーの誰にも気づかれずに動き続けるリアルタイムOS、QNXだ。レーンキープアシストが滑らかに働く最新の自動車。欧州から北米、日本、中国まで、主要メーカーのほとんどがこのOSを採用し、ソフトウェア定義車(SDV)の安全や制御を担う中核に据えようとしている。
だが、運転席にその名は表示されない。表に出ないことは、弱みではない。誰もが必要としながら、誰も意識しない層を押さえること。それが、この会社の新しい立ち位置だった。冒頭のアプリを操作してみせた男は、2026年2月期の決算でこう言い切った。
「我々はもはや、変革期にある企業ではない」
黄金時代を知らないCEO
ジアマッテオがBlackBerryに加わったのは2021年、CEOに就いたのは2023年12月だ。つまり彼は、この会社がまだ「リサーチ・イン・モーション」と呼ばれ、キーボード端末で世界を席巻した黄金時代を、内側からは知らない。マカフィーで最高収益責任者を、その前はモバイルセキュリティのAVGテクノロジーズで最高執行責任者を務め、セキュリティで企業を立て直してきた実務家である。
黄金時代への郷愁を持たない経営者は、過去の栄光を聖域にしたりはしない。端末事業の記憶は、彼にとって守るものではなく選別の対象でしかない。実際、取材でも彼が端末時代の内幕に踏み込むことはなかった。
彼が引き継いだのは、苦境の只中にある会社だった。2023年2月期、BlackBerryはGAAPベースで7億3400万ドルの純損失を計上した。その大きな部分は、のれんと長期性資産の減損だった。減損とは、過去の買収で積み上げた資産がもはや値打ちを持たないと認める処理である。多くに手を広げ、数々の企業を買収し、新しいモデルを試した多角化の戦略が生んだ価値を、自らの手で帳簿から消し込んだ。
端末事業が崩壊した時期の2014年2月期、約59億ドルという破滅的な損失には遠く及ばないが、ソフトウェア企業へ転じて以降では最も深い傷だった。
取締役会が下した判断は、実験を重ねる段階を終え、確実に収益を得られる領域に絞ることだった。強靭で、予測可能で、自社の技術が市場に合致し、単発の成功に終わらず繰り返し収益を積み上げられる事業へ。そのふるいに残ったのが、QNXとSecure Communications(セキュアコミュニケーションズ)の二つである。



