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2026.06.18 13:37

AIに任せていいこと、自分でやるべきこと──検索と宿題の境界線

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Ethan MollickのSubstack連載「One Useful Thing」に新しいブログ投稿が出たので、当然のように目を通した。MollickはMIT(そして後述するがウォートン・スクール)と縁があり、AIに関する重要な論者でもある。だから私は彼の文章に注意を払っている。

最新の長文は「Choosing to Stay Human(人間であり続けることを選ぶ)」というタイトルで、人間が研究や何らかのテーマの学習においてAIをどう使い、そしておそらくどう誤用しているのか、その一端を掘り下げている。

Mollickは「認知の明け渡し(cognitive surrender)」という言葉を用い、被験者や一般のユーザーが思考をAIに外注するさまざまなあり方を論じる。Tina Austinという人物の別の投稿では、「認知の明け渡し」という用語がウォートン・スクールで広まりつつあると述べ、Mollickが取り上げた研究を丁寧に読み解こうとしている。いずれにせよMollickの投稿は、人間の表現、人間の創造性、人間のスキル、そしてAI利用をめぐる大きな問いを示している。ただし今回の更新には、カワウソは出てこない。

Mollickの投稿の前半は、ライティングについてだ。

人間らしく書く

いいか、これはどんどん強力になっている。そしてこちらが差し出すだけ、向こうも受け止めてくる。どうやって抜きん出るのか。人間の書き手としては、言葉をナイフのように使わなければならない。物事を切り分け、そして場合によっては……再び組み立てるのだ。私は個人的に、ピザの話や、幼い頃に覚えたBilly Joelの歌詞を持ち出すのが好きだ。私の知る何人かの話をしよう──彼らは、息継ぎをしたことも、腹の底に空腹を感じたこともないかのように書く。そしてAIはそれを模倣できる。

いまの段落を振り返ってほしい。

これは人間が書いたように見えるだろうか。私は、この段落がAIの吐き出す文章とどう違うのか、5つくらいなら挙げられる。だがウェブを歩き回るうちに、そうした「兆候」はますます消えていく。皮肉なことに、他人に文章を書かせるためにお金を払う人々が求めるのは、血の通わない定型的で「プロフェッショナル」なコピーだからだ。彼らはそれを「人間味のある」ものにしたがる。Googleのアルゴリズムが合格と言える程度に口語的にし、それ以上でも以下でもない、と。

その先にあるのは絶望である。

AIが良くなるなら、人間の文章も変わらなければならない。

Mollickがうまく言い当てたと私が感じた点がある。

「私たちは、よく練られた文や知的に聞こえる文章を、労力を伴う人間の仕事の結果として読むよう訓練されており、そのためAIが書いたコメントを目にすると注意を向けてしまう」と彼は書く。「しかしそこには人間の意味がないことが多い。こうした投稿は、意味の形をした注意の吸血鬼にすぎず、解読に精神的な労力を要するのに、見返りとして同等の理解を与えてくれない」

「意味の形をした注意の吸血鬼」という表現は、私の心に刺さる。上で述べたように、いまや私たち人間は「違う」存在であるために努力しなければならない。私はここに、「汎用ソースの空き家」みたいな言葉を付け加えたくもなる。文章というものが、人間の文章もAIの文章も含めて、根本から変わったことを語るためにだ。こうした創造的な言い回しには2つの効用がある。1つは、言葉をナイフのように使う人間の書き方という目標を前進させること。もう1つは、特にそう促さない限り、AIが自力では思いつきにくい言葉であることだ。

スキルを明け渡す

認知の明け渡しをめぐる大論争の一部は、私たちが人間の営みとして何を手放し、そしてなぜ手放すのか、という点にある。Mollickはこれを詳しく論じ、Austinも引用された研究を細部まで分析している。だが、見解が割れるスキルの例としてわかりやすいのが筆記体である。

学校が筆記体を教えなくなったことを喜ぶ人もいる。一方で筆記体を再び教え始める学校も出てきている。筆記体がスキルとして重要だと考える人もいれば、華道のように、美しさや芸術性のためだけに教えるべきだと考える人もいる。

(実際、いまの段落もAIの文章と見分けられるかもしれない。たぶんだが)

一般に、Mollickが指摘するように、私たちはAIへの依存が強まりすぎ、人が学ぶべきことを学ばない段階に近づいている。Mollickが以前の投稿で使った「ギザギザのフロンティア(jagged frontier)」という言葉は、今回は出てこなかった。その代わり彼は、AIは実質的に何でもできてしまうのだから、AIに何をさせ、何をさせないかを決めるのは私たち次第になる、と示唆した。

あなたの宿題

では、Google検索の話に戻ろう。

Mollickのブログやほかの場所でも、電話番号を覚えることのような作業はAIに任せてもよい、という話を耳にする。そうした反復的な作業は、外に出しても安全だというわけだ(本当にそうだろうか?)。

私は、Google検索も同じ類いだと主張したい。数回クリックするだけでインターネット上の情報の総体にアクセスできるのなら、それを拒んで自分で探し回るのは愚かに見える。少なくとも多くの場合は。私は、情報は自由に流れるものだと思うので、GPTに尋ねるのではなく従来の検索をするのは、結果をサイロ化するようなものだ。誤った個別ソースから誤ったデータを拾ってしまうかもしれない。GPTなら、すべての答えの要約を数秒で手に入れられる。

しかしMollickが指摘するように、宿題は別物である。概念を理解するためには、宿題を自分でやる必要がある。単にデータを探すことではなく、そこにスキルが絡むなら、それは手元に残しておきたいものかもしれない。

問題の一部は、AIに何をさせるべきかについて、各人がそれぞれ限界と境界線を持っていることだ。そしてそれらが一致することはほとんどない。だから私はMollickに同意する。これを見極めることは「挑戦」になる。

少なくとも、私たち自身の人間としての進化的な強さを試すホッケースティック型の曲線にただ反応するのではなく、この困難なプロセスを意図的に進めることはできる。続報を待ってほしい。

forbes.com 原文

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