関係性から事業が生まれた実践例
同社は渋谷に70年以上拠点を構えながら、地域との接点はほとんどなかった。転機となったのは、企業・行政・NPOなど多様なセクターの人々が数カ月にわたってフラットに対話し、渋谷という地域の課題と向き合うプログラム「渋谷をつなげる30人」への参加である。
「渋谷をつなげる30人」とは、企業・行政・NPOなど異なるセクターから30人が集まり、役職や肩書きを外して個人として対話を重ねながら、地域課題解決プロジェクトを創造するプログラムである。組織人として「自社が何ができるか」から始めるのではなく、課題の当事者達と人間として知り合い、所属組織の意向はさておき、自身は人生において何をやりたいのかや、まちのために何が必要か、何をしてみたいかを語り合う事から始まる。
ここで興味深いのは、ニッシリは当初から「渋谷区の課題を解決する事業の創造」を目的として参加したわけではなく、あくまで社員に地域とつながる事で見識を拡げて欲しい、という「人財育成の一環」で参加をしたという点だ。
そのような中、当時営業職だった社員が「この地域で落書きで困っている話」を実際に聞く中で、「自社として何ができるか」と考え、立ち上がったのが「落書き防止アクション」である。
ニッシリは、これまでの自社のネットワークや知見を活かし、マジックやスプレーを弾いて落書きが描きにくく、かつ汚れを簡単に落とせるシリコーン製の落書き抑止シート「ラクガキボウシシートS™」を展開した。
これは商社としての単なる製品販売ではなく、地域の課題と向き合うプロセスの中で生まれたものであり、関係性の中から生まれた価値と言える。
こうした事例は、ニッシリだけではない。全国各地で、同様のプロセスを経て地域との共創に至った企業が少しずつ生まれ始めている。共通しているのは、いずれも「プロジェクトありき」ではなく「関係性ありき」で動き始めたという点だ。
「地域共創人財」という新しい経営資源
この事例から見えてくるのが、地域とつながり、地域課題を解決する事業を創造していく「地域共創人財」の重要性である。
従来の企業人財育成は、マネジメント能力や専門スキルの向上に重きが置かれ、効率性が追求されてきた。それは企業の論理に最適化された人財を育てることであり、言い換えれば、組織の都合に染まることを暗黙の前提としてきた節がある。
一方、今後求められるであろう「地域共創人財」とは、立場や肩書きや企業の論理を越え、個人として地域や他社と向き合い、対話を重ねながら信頼関係を築き、企業と地域の論理を行き来しながら、自社のリソースを他者と組み合わせ、価値へと転換していく力を持つ人財だ。
冒頭で述べたように、かつて企業にとって地域課題とは「真剣に向き合わなくてもよいもの」とされてきた。しかし行政だけでも、NPOだけでも、市民だけでも、もはや担いきれない領域が広がっており、その解決にはもっとも豊かなリソースがある企業の(競争力ではなく)、共創力を高めることが、何よりも重要である。
「地域共創人材」育成の第一歩は、自社の人間を組織の論理から一度解放することにある。それは単なる人材育成ではなく、企業の共創力そのものを高め、企業という枠組みを越えて地域の未来に責任を持つことなのだ。
しかし、この問いは同時に、企業の組織のあり方そのものを問い直すものでもある。どれほど優秀な人材であっても、短期成果や効率性を過度に求める組織の中では、関係性を育み続けることは難しい。時間はかかるが、そうした前提そのものを見直していくことも必要だ。


