最初は「本を燃やすなんて」と抵抗していた司書たちも、あまりの寒さに背に腹は替えられなくなるが、その中で活版印刷された最初の本である「グーテンベルグ聖書」は燃やすまいとする司書がいる。「西洋文明が終わりを迎えるなら、この一冊だけは守ってみせる」という彼の台詞は、西洋文明がキリスト教と科学技術の発展と共にあったことを示して興味深い。
本が破られ、どんどん火に焚べられ燃えて灰になっていくさまは、西洋の知が失われようとしている象徴的な光景だ。それは端的に言えば、西側先進国が作り上げてきた世界の終わりでもある。
終盤、メキシコとの国境に押し寄せたアメリカ難民を受け入れてもらうため、アメリカはラテンアメリカ諸国の債権を免除する措置を取る。いち早くメキシコに避難していたベッカー副大統領は最後に、「途上国と言われる国々に世話になってます」と反省と感謝の弁を述べる。ここには、先進国を牽引してきたアメリカの終焉が描かれている。
90年代後半以降、ハリウッドのSF映画は世界の終わりを何度もモチーフにしてきたが、それは文明の高度な発達が地球環境に甚大な影響をもたらしていることへの”罪悪感”が、アメリカの中に潜在していることの現れだっただろう。実際、本作の制作によって排出された二酸化炭素を吸収させる植林を行うため、20万ドルが拠出されたという。”罪悪感”は映画のテーマと制作過程の矛盾として意識され、ささやかながらも贖罪につながった。
同時に一方で、「世界はそう簡単には終わらない」という漠然とした安心感が共有されてきたからこそ、我々がそれらの作品を楽しんできたのも事実である。映画に没入してどれだけの緊張やショックを覚えても、終われば安定した世界に戻れるのだという確信があった。しかし、この作品が公開された2004年頃よりも温暖化が顕著に進み、世界各地で起こる自然災害のレベルが年々深刻なものになってきている今、映画にフィクションとして描かれる終末は、もはやエンターティメントとして消費するには重過ぎる内容かもしれない。


