否定的なことをあからさまに口にしないマネジャーがいる。厳しく批判したり、声を荒げたり、ぶっきらぼうに訂正を突きつけたりもしない。表面的には冷静でプロフェッショナルに見えることすらある。だが、そうした人との会話を終えた側は、どっと疲れたり、落ち着かなくなったり、自分の立ち位置がなぜか曖昧になった感覚を抱く。
ここが厄介なところだ。明らかな出来事は何も起きていない。侮辱されたわけでもない。衝突もない。会議は礼儀正しく進んだかもしれない。言葉も中立的だったかもしれない。しかし、残された感情は別の物語を語っている。チームは支えられているのではなく、監視されていると感じる。導かれているのではなく、管理されていると感じる。エネルギーを奪うのは否定的な言葉そのものではなく、曖昧さなのだ。
感情の曖昧さが人を疲弊させるのは、「言われていないことを解釈せざるを得ない」からだ。沈黙が意味を持ち始める。わずかな口調の変化が含みのあるものに感じられる。曖昧な「いいよ」は、率直な懸念よりも不確実性を生む。そうした状態が続くと、従業員は仕事そのものより、マネジャーを読み取ることに多くのエネルギーを割くようになる。
なぜ曖昧さはこれほど消耗するのか
明確なネガティブフィードバックは不快かもしれないが、少なくとも対応すべきことがわかる。感情の曖昧さがより厄介なのは、人を推測に追い込む点にある。マネジャーは反対していたのか。失望していたのか。問題があるのか、それとも単なるスタイルなのか。
この不確実性は認知的負荷を生む。従業員は会話を反芻し、小さな手がかりを分析し、不完全なシグナルから意図を推し量ろうとする。会議を終えて「何を改善すべきか」「次に何をすべきか」がわかる代わりに、「何かがおかしいかもしれない」という感覚が残る。仕事は続くが、頭の中はそのやり取りに引き戻され続ける。
ここで感情の曖昧さは、マネジメント上の問題になる。人は、たとえ厳しくても「明確さ」には対処できる。人をすり減らすのは、十分な情報がないまま、リーダーの機嫌や承認、懸念を読み解かなければならない状況だ。マネジャーは自分では節度を保っているつもりでも、チームはその節度を不確実性として受け取る。



