教科書は、書き換えるもの
たばこは景気の良し悪しに左右されない―。そんな業界の定説が崩れたのは、リーマン・ショックのときだ。欧州を中心に可処分所得が大きく目減りし、嗜好品であるたばこへの支出が減少。加えて各国の財政が悪化したため、増税によってたばこの値段は上がらざるを得ない状況となったのだ。
日本たばこ産業(JT)の社長、小泉光臣は、業界が直面した初の危機をこう振り返る。
「高いたばこから安いたばこに切り替える人が増えるダウン・トレーディングが起きたのです。自社製品をみると、景気が悪いときに、その受け皿となるような、お値頃感のある低価格帯が手薄でした」
そこでJTは、廉価な手巻きたばこを展開する欧州大手、ベルギーのグリソンを買収する。だがその一方、好景気に対応する高価格帯も手薄となっていた。ここで浮上したのが、マイルドセブンをプレミアムブランドに育てるという案だった。
ところが小泉に、迷いが生じる。マイルドセブンは国内シェア1位にあり、JTの国内売上高の半分以上を占めるロングセラーである。ブランド名の変更で顧客離れが起きれば、会社に与える打撃は計り知れない。
後に「メビウス」となるブランド名の変更について、小泉は市場調査を重ね、データでは名称刷新に対し、「わずかながら」のポジティブな結果を得た。
さらに小泉は、ブランド名変更のプロジェクトが進んでいることは秘密のまま、全国のセールスマンやたばこ店のオーナーを訪ねた。
「『最近、マイルドセブンはどうなの』と質問するわけです。すると、最初は皆、異口同音に『安心感がある』という答えでした。ところが、さらに突っこんで話を聞くと『新商品が出ても、ワクワク感がない』『将来はどうなっちゃうんでしょうね』という本音が出てきたのです」
数字には表れていない生の声である。迷いは危機感に変わった。
「ブランドの終わりの始まりが起きているのではないか」
現場には表に見えない「不安感」が漂い始めていた。小泉は、マイルドセブンのブランドが衰退期に差し掛かっていることを、肌感で知ったのだ。
彼は、こう言う。
「判断とは迷いとの戦いであり、決断とは恐怖との戦いであると思い知らされました」
小泉には、原体験がある。民営化直前に入社した彼は、先輩たちから日々、こんな言葉を突きつけられた。
「30年後、俺たちはいないぞ。グローバル化と多角化はどうするんだ。何もやらないと、会社はつぶれるぞ」
入社早々、崖の切っ先に立たされていることを思い知らされ、同時にどこに進むべきかを先輩たちと考えなければならない。だから、彼は「漠然たる不安感からは何も生まれない」と強調する。
「人は情報が不足していると不安になります。でも、情報量が増えると、脳は問題解決に向けて動き始め、不安感は危機感に転じるのです。全ては健全な危機感から新しいものが生まれるのです」
小泉が本社以外のいわゆる“営業現場”を経験したのは民営化直後のわずか9ヵ月間しかない。だが、それが彼の思考の軸足になっているのだ。
小泉は、こう言う。
「営業担当が短かったからこそ、私にとって現場は重要なのです。社長になったいまでも、何かジャッジするときは、現場との乖離がないかどうか、常に自問自答を繰り返しています。もしも現場経験が長ければ、自分は現場を知っている、という慢心に陥ると思うでしょう」
小泉がブランド名変更のプロジェクトで、最後まで迷ったのは「JTという軍団に、その戦略を実行する『組織能力』がありや、なしや」だった。
ブランド名変更を発表する前の年、東日本大震災が発生し、JTの工場は壊滅的な被害を受けた。だが、社員は自宅が被災しているにもかかわらず、また本社からの指示を待つことなく、自主的に工場の復旧作業を進める。小泉は、その現場に健全な「危機感」をみた。そして、ひとり社長室でメモ帳にこう記したのだった。
〈JTに組織能力あり。従って本日決断〉
いま、小泉は社員にこう言い続けている。
「教科書とは、学生時代は学ぶもの。しかし、社会人になったら、教科書は書き換えるもの。その意気込みがなかったら、会社はつぶれますよ」