生態系そのものを立ち上げようとする一皿
熊は、自分が食べてきたものによって味が変わる——と谷口氏は言う。私がL’évoで口にした熊の一皿には、獣臭さはほとんどなかった。むしろ、その時々の森の香りを浴びるような体験だった。
春先の一皿には、厳しい冬を突き破って芽吹く生命力が宿る。新緑の季節には、深まりゆく森の息吹が軽やかに重なる。熊を味わうことは、結果として、その熊が生きてきた森を味わうことでもある。
そして、この体験は熊だけに限られない。L’évoの皿には一貫して、食材の背後にある生態系そのものを立ち上げようとする感覚がある。料理を口に運ぶとき、私はしばしば、自分がいまどこにいるのかを忘れる。森の中にいるのか、川のほとりにいるのか、大地そのものに抱かれているのか——様々な景色との接続の中で、世界との境界がなくなる。L’évoの料理は、食材を育てた生態系を、食を入り口とする五感体験として再構成する試みなのだと思う。
こう書き進めてくると、L’évoにおける「辺境」の意味が、徐々に反転していくのがわかる。
利賀村は、中心から遠い場所ではない。中心の論理——スピード、効率、スケール、抽象化——から距離を取ることで、別の論理が可能になる場所である。都市のレストランでは、食材、水、器、紙、布といった要素の多くが、流通やインフラの背後に折りたたまれ、見えにくくなる。もちろん都市にも、作り手との関係を大切にする店はある。それでも、都市の効率はしばしば関係性を抽象化する。
利賀村では、それらが再び顔を持って現れる。水は山から来る。器は作家の手からくる。紙を漉いた人の名がわかる。食材を採った山の斜面が見える。顔を持つ関係性の中でしか、ある種の豊かさは生まれない——これがL’évoが静かに証明している仮説である。

シンガポールからの旅人が、パリのシェフが、ニューヨークのジャーナリストが、わざわざ富山の山奥まで足を運ぶ。彼らは美食の希少性を消費しに来ているだけではない。自分たちの暮らす中心から失われつつあるものに——顔を持つ関係性、循環する水、生態系ごと皿に宿る食に——出会いに来ているのだ。
その出会いは一方通行ではない。訪れた者は利賀の時間のなかで静かに変化し、自分たちの中心へと戻っていく。彼らの意思決定や創造に、利賀の記憶は微かに、しかし確実に、影響を与え続ける。辺境は、世界を育てる。世界は、辺境に育てられる。
L’évoは、この往還を一軒のオーベルジュというかたちに結晶させている。料理、器、紙、水、そして記憶——すべてが循環しながら、少しずつ、利賀を世界に、世界を利賀に、翻訳し続けている。辺境とは、遅れた場所ではない。未来のかたちが、先に芽吹いている場所である。利賀村のL’évoを訪れるたびに、私はそのことを、舌の上で、皮膚で、体全体で、繰り返し感じている。


