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2026.05.19 17:00

ケンタッキーダービー有力馬を育てた、純資産約7900億円の米運送業界ビリオネア

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ミズーリ州アーバナでの少年時代と1970年プライム創業

フォーブスの世界長者番付に名を連ねるローは、ケンタッキーダービーの出走馬やオザークの豪邸を手にするはるか以前から、抑えきれない野心の兆しを見せていた。1949年生まれの彼は、人口259人のミズーリ州アーバナの農場で育った。父カール・ロー(1999年死去)は、州の市場ニュース記者兼ラジオ司会者として畜産業界を取材していた。母ベラ・ロー(2012年死去)は美容師で、家庭を守っていた。

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ミズーリ大学の学費を賄うため、家族が飼っていた牛の一部を売却したローは、その資金でダンプトラックを購入した。その後、そのトラックを下取りに出し、長距離輸送ができる箱型トラックに買い替えた。1970年、大学在学中だったローはプライムを法人化し、そのトラックを高校時代の友人に貸した。だが、数カ月後にその友人が辞めたため、ローは大学を中退し、自らフルタイムで運転するようになった。

しかし、ローは単なるドライバーで終わるつもりはなかった。創業初期の事業運営を手伝っていた両親とともに、ローは借り入れた資金でトラックを購入し、ドライバーを雇った。そして、カリフォルニアと中西部、東海岸の間で農産物を往復輸送する安定した仕事を収益源にした。1979年までにローは、約300人のフルタイムドライバーを雇用し、100万ドル(約1億6000万円)の利益を上げるまでになった。「当時、私は30歳だった。『これはかなりいい。トラック輸送という仕事が気に入った』と思った」とローは振り返る。

だが、ローの運命はその後、大きく変わった。1979年に就任したポール・ボルカー連邦準備制度理事会(FRB)議長は、インフレを抑え込むために金利を20%近くまで引き上げた。これにより、借り入れに頼って拡大していたプライムは、1981年までに連邦破産法11条の適用申請に追い込まれた。同社はその後4年間、破産手続きの中で低迷した。母ベラは自宅を担保に5万ドル(約790万円)を借り入れて事業の存続を支えた。「私はバランスを失っていた。会社の自己資本に比べて、負債があまりに大きすぎた。田舎の農家出身の小さな事業者にとって、連邦破産法11条の適用を受けるのは不名誉なことだった。それでも我々は借金を返した」とローは振り返る。

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1980年代初頭に訪れた苦境は、ローを財政的に追い詰めただけではなかった。この頃彼は、華々しい経歴の中でほとんど知られていない最も暗い時期を過ごしていた。

1983年のコロラドでの刺傷事件、一時的な心神喪失状態とする無罪判決

ローは、1983年10月にコロラド州西部の古い鉱山町クリード近郊を狩猟旅行で訪れた際、友人であり、プライムの荷物を時折運んでいたトラック運転手のA.D.「デュアン」マコワンを刺した。その5日前、2人は金銭とリースをめぐって口論していた(ローは後に、その口論について覚えていないと証言した)。これまで報じられていなかった裁判記録によると、マコワンがひざまずいてテントを設営していたところ、ローは刃渡り8インチの狩猟用ナイフで彼の背中を刺した。マコワンは一命を取り留めたものの、死にかけるほどの重傷を負い、ローは、コロラド州の地方検察当局によって第1級暴行罪で起訴された。

14カ月に及ぶ審理の末、ローは1984年の裁判官裁判で、事件当時に中毒性精神病の状態にあったという弁護団の主張が認められ、無罪となった。旅行の前から旅行中にかけて、ローはHOLDの咳止めドロップを強迫的に何十個も摂取していた。このドロップには、強力な咳止め成分であるデキストロメトルファンが含まれており、大量に摂取すると解離性の副作用を引き起こす場合がある。

また、睡眠不足も重なったことで、ローは事件が起きた際に一時的な心神喪失状態に陥っていたと弁護団は主張した。この事件は最終的にコロラド州最高裁まで争われたが、最高裁は一審の判断理由を不適切としたものの、二重処罰禁止の原則があるため、無罪判決を覆すことも再審を求めることもしなかった。

マコワンはその後、怪我からは回復したが、2022年に84歳で亡くなった。「コロラドでの事件は、40年以上も前の話だ」とローは語り、この事件を「不幸な試練」だったと表現した。マコワンの未亡人はフォーブスに対し、この件について話すことを拒否し、「もう済んだ話であり、私はロバートに迷惑をかけたくない」と語った。

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翻訳=上田裕資

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