戦略会議の途中で、同僚が「10分前の発言を撤回したい」と言い、場の空気がしらけるという状況を想像してみてほしい。他の参加者の目にはそれは混乱の表れに映る。しかし本人にとっては、より正確な情報が得られたことを意味しており、当初の立場に固執することはその情報を無視することになる。
ここで重要なのは、信念の更新と慢性的な優柔不断を区別することだ。信念の更新は反応、つまり新しい証拠に応じた動きであり、優柔不断は回避的で社会的圧力に対する動きだ。前者は認知的な強さを示し、後者はその逆を示している可能性がある。だが日常ではこの2つは混同されがちで、「頼りない」という同じレッテルを貼られる。
習慣2 必要以上に多くの文脈を説明する
簡単な質問に対して、本題に入る前に長い前置があり、それから5分かけて答えるという状況を想像してほしい。そこには注意すべき点や条件、歴史的背景、例外に対する特例までが盛り込まれている。あなたが求めていたのは簡潔な答えであって、セミナーではないということに相手は気づいていないように見える。それは見下されているように感じられたり、疲れを覚えるものだったり、あるいは単に社交的な空気を読めないものだ。
だが実際に起きているのは知識の呪いと呼ばれる、よく知られた認知現象だ。これは真の専門知識やより深い認知能力と直接関連している。
知識の呪いとは、他者の理解度を脳が過大評価してしまう原因となる認知バイアスのことだ。ある概念を習得すると、それを理解していなかった頃の感覚を思い出せなくなってしまう。その結果、自分とは異なる背景を持つ人に共感することが難しくなるという「盲点」が生じる。知識が深ければ深いほど、そうした知識を持たない人にとっての「入り口」を見つけにくくなる。
知的な人はあるテーマについて長年考え続けるうちに、無意識のうちにそのテーマの周りに複雑な思考の骨組みを築き上げてしまうことがよくある。そのテーマの説明を試みる際、知的な人は聞く側がまだ持っていない前提ではなく構造の上部から始めてしまう。
専門家が情報を整理するために複雑なメンタルモデルを構築すると、そのモデルが共有されていないためにコミュニケーションで問題が生じる。説明は正確で網羅的だが、聞き手にとっては全く理解できないものだ。
説明される側にとっては、これは社会的配慮の欠如として映る。だがこれは知識が多すぎることの副作用であり、知識が不足しているからではない。知的な人は場の空気を読めないわけではない。ただ、自分の思考を相手が理解しているかが本当に把握できないのだ。


