4年に一度の世界的祭典を、再び日本へ──。2035年のワールドカップ(W杯)招致は日本ラグビー界の悲願だが、その目的は競技の普及や振興だけではない、と日本ラグビーフットボール協会会長の土田雅人は言う。未来のために、スポーツにできることは何かと考えた末に、招致の“合言葉”を策定した。土田に、その思いを聞いた。
力強いスクラムに華麗なパス、相手を出し抜くサインプレイからの快足を飛ばしたトライ。楕円形のボールを使うラグビーというスポーツには、いくつかの魅力が詰まっている。 しかもその魅力は、試合だけにとどまらない。
勝利をかけて死闘を繰り広げた敵同士であっても「ノーサイド」の笛が吹かれれば、その壁はなくなり、同じスポーツを愛する“仲間”に戻る。日本ラグビーに根付いたこの精神は「ノーサイドスピリット」という言葉で表される。
それを象徴するのが「アフターマッチファンクション」という慣習だ。ラグビーでは、試合が終わるとレフリーと両チームの選手全員で健闘をたたえあう交流会があり、左手にはビールを持ち、右手は握手を交わすために空けておくという決まりごとがあるという。それは観客にも共通しており、観戦席が野球やサッカーのように敵と味方で分かれておらず、仲良く並んで観戦し、試合後は近くのパブで一緒になってビールを酌み交わすことも少なくない。
ラグビーが英国のパブリックスクール発祥のスポーツであることはよく知られている。だがこの「ノーサイド」という用語は、母国の英国ではとうに“死語”になっているという。国際大会でも試合終了は「フルタイム」と称されるので、「ノーサイド」は今や英語圏でも通用しない。ところが日本では競技用語のみならず、ラグビー精神を象徴する言葉として親しまれており、人の在り方までを含んだ言葉として認識されている。近年では、日本を象徴する価値観として海外からも好意をもって受け取られている。
日本文化で熟成された精神
「ノーサイドスピリット」が海外に広まったきっかけとなったのが、2019年に日本で開催されたW杯だった。海外から多くのラグビーファンが訪れ、治安の良さや食事のおいしさ、人々の親切さに感嘆したが、世界に感銘を与えたもののなかには日本代表のある行動も含まれていたと、土田は語る。
「試合を終えた後の日本代表が、観客へ感謝を示すためスタンドにお辞儀をし、グラウンドを一周したのです。日本では当たり前にしていたことですが世界では珍しい光景でした。感銘を受けたニュージーランド代表であるオールブラックスが、すぐさまこれを取り入れ、他国の代表チームにも次々に広がり、今ではラグビー界で新たな文化となっています」
25年にイングランドで行われた女子のW杯でも、日本の選手が試合後に観客に向かって深々と頭を下げたところ、観客が総立ちになって選手に拍手が送られ、その様子に世界各国から称賛の声が寄せられたという。 選手だけでなく観客やレフリーにまで敬意を示すのはなぜなのか。
「危険なスポーツなので、ルールを守ることが互いに大事なことだとわかっているからでしょうね。私自身もラグビーを始めたころに、指導者からレフリーをリスペクトしろと口酸っぱく言われました」(土田)
土田はさらに、とりわけ日本でノーサイドの精神が根付いた理由として、武道との共通点を述べる。ラグビーも武道と同様に「心技体」の調和を重視している。土田自身、座右の銘とするのは武道の修行段階を表す「守破離」。基本を徹底して、殻を破って、新しい道をつくっていくことを繰り返していく。そのためには、身体だけ、技術だけを鍛えてもダメで、心も鍛えなければ高みに行けないことを、日本人は武道を通じて知っている。だからこそ、日本ラグビー独自のノーサイドスピリットが育まれたのではないかと考えている。
ビジネスをポジティブに導くラガーマン魂
ノーサイドスピリットは日本の経済界にも少なからず影響を与えてきた。日本の経営者にはラグビー経験者が数多くいるが、土田自身も協会の会長職を務めながら、サントリーの役員として経営に参画している。ビジネスとの関連性について土田に聞いてみると、M&Aでの経験を語ってくれた。
「企業統合を進めた際に、ラグビーのレフリー役を意識しました。レフリーというと管理するイメージがありますが、ラグビーの場合は反則が起こらないように試合を導いていく存在です。下手なレフリーは、起こった現象に対して笛を吹くだけですが、良いレフリーは選手が熱くなってきたときやプレイが少し荒くなった段階で、両チームのキャプテンを呼んで注意し、試合を落ち着かせます。企業統合の際も買収したほうが優位な立場にあると思われがちなので、上から目線にならないように気をつけ、組織を一からつくるように心がけました」
経営者が多い理由についてはこう考察する。
「ラグビーというスポーツは体が大きくて力が強い人も必要ですが、俊敏にパスを出せる人も、トライを取るために足の速い人も必要です。つまり、どんな人にも活躍する場所がある“適材適所のスポーツ”といえます。それは、逆に考えると、特性の違う人たちと互いに協力しながら物事を進めていかなければ、うまくいかないということ。こうしたことが他者へのリスペクトや仲間を大事にすることにつながり、経営者、リーダーに必要な資質を育む下地になったのではないでしょうか」
加えてかつての仲間、ライバルたちが助け合い、切磋琢磨し続けていることもあるのかもしれないと土田は言う。人のつながりもそのひとつだ。ノーベル賞受賞者で、京都大学教授の山中伸弥もそのひとり。山中との縁をつないだのは、土田の大学時代の盟友で、ミスターラグビーといわれた故・平尾誠二だった。
「『パスの下手な山中さん』と平尾が山中教授を紹介してくれました(笑)。 山中教授も神戸大学の医学部時代にラグビーに打ち込んでおり、同世代ということもあってすぐに距離が縮まりました」と振り返る。 互いに忙しい今でも年に1、2回食事やゴルフを楽しむ仲で、ラグビー界を応援してくれるひとりだそうだ。
山中に限らず、かつての仲間、ライバルの多くがラグビー界を再び盛り上げようと結成された会もある。 それもミスターラグビーが残してくれた縁だ。
「平尾が亡くなって10年がたちますが、彼が立ち上げた“楽愚美(らぐびー)会”は、今も続いています。 それまで幹事なんてやったことのなかった平尾が第1回の幹事を買って出てくれて、かつて競い合ったいろんなチームの仲間が集まりました。 今や多くのメンバーが経営層になり、協会に対して積極的に応援してくれています。 ただ、飲むと『あれはスローフォワードだった』など、いまだに昔の話で論争になるのには困りますけどね(笑)」

日本だから、できること
26年1月、日本ラグビーフットボール協会は正式に35年の男子ラグビーW杯招致を表明した。 19年の感動が再び戻ってくるのが楽しみだが、土田は単にスポーツイベントだけで終わらせるつもりはない。
「招致にはスポーツやラグビーの発展という目的もありますが、『ノーサイドスピリット』を世界の共通言語にしたいという思いもあります。 今、世界を見渡せば戦争が起こり、国や社会の分断が起こり、貧困や教育など格差が広がっています。 分断を越え、人類をつないでいくために、今こそノーサイドスピリットを合言葉にして、発信していくべきではないか」
実は、それは大人だけの発想ではなかった。 25年末、花園で行われた全国高校ラグビー大会で関西学院高校の西浦章博主将が選手宣誓でこう訴えた。
「多くの人の支えと応援があったからこそ、私たちはここにいます。 ここにいるすべての者が、勝利の喜びだけでなく、敗北の悔しさも、相手チームの思いも知っています。 多様性がうたわれつつ、分断や争いが起きるこの時代に、私たちがノーサイドの精神を体現する意味は大きいはず」
その宣誓を聞いた土田は、次世代にも同じ課題意識があることに驚いたという。 同時に、招致を契機としてノーサイドスピリットや礼を重んじる日本の文化を発信していく意志を、あらためて固めたそうだ。
「例えば、フランスでは柔道がとても人気ですが、それはフランスが移民の国であることが関係しているといいます。 柔道の礼節を通して、多様な背景をもつ子どもたちが、他者への敬意や礼儀を学ぶことができる。 人を尊重し、規律と品位をもって結束して情熱的に動く。 まさにノーサイドスピリットが世界から求められていることの証左です」
まずはこのノーサイドスピリットという言葉を国内に普及させていくと土田は言う。
「ただ、言葉を掲げただけで伝わるものではありませんから、協会として地道な活動を行っていこうと考えています。例えば、子どもたちも試合後に健闘をたたえあうようになりましたし、大人が口出ししない子ども主導の大会もあります。でも、ラグビーを実際に見てもらうことが何よりも伝わると思っていますので、まずは、試合を見に来てほしい」
ラグビーだからできることがあり、日本だから世界にメッセージを届けることができる。 日本発のノーサイドスピリットが世界をつなぐ日も近い。
W杯日本開催までの道のり
「ノーサイドスピリット」を掲げ、ラグビーの精神を広めることを目的に2035年のワールドカップ招致を目指す日本ラグビーフットボール協会。27年は豪州、31年には米国での開催がすでに決まっており、35年大会では南米や欧州の国々がライバルになるとみられ、決まれば19年大会以来のアジア開催となる。正式決定は27年11月の予定。
つちだ・まさと◎1962年生まれ。秋田工業高校時代に高校日本代表に選出され、同志社大学時代は大学選手権3連覇を達成。日本代表キャップは1。現役引退後はサントリー監督として日本選手権で3度優勝。2022年、日本ラグビーフットボール協会会長に就任。現在、サントリーホールディングス常務執行役員。




