ここで、ひとつはっきりと書いておきたいことがあります。「子どもを排除しないラグジュリー」の意味です。
ぼくが子どもを入れたラグジュリーと言い出したのは、ラグジュリーブランドのキッズ版を念頭にいれていたわけではないです。発想の起点は、子どもを排除することで成立するレストランやホテルなどのラグジュアリーホスピタリティ産業のあり方への疑問です。「煩い存在には蓋を閉めろ」とでも言いかねない根底には、子どもを未熟な存在とする見方があるように思えました。
イタリアのレッジョエミリア市の幼児教育は世界的に高評価を受けています。この教育機関を取材した話は2020年に出版した『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』に書きましたが、1950年代に教育心理医療センターのディレクターだったローリス・マラグッツィが確立した教育方針は「子どもにはすべてがある」です。
19世紀の幼児教育は子どもを大人以下の未熟な存在とみなしていたのを、マラグッツィは逆転させたのです。子どもにはすべてあるから、それをどう掘り起こすかが教育である、という考え方をします。
レッジョエミリア幼児教育の現場にいくと、大きなテーブルに鉛筆、クレヨン、マーカーと多様な道具があり、カラーの種類も豊富です。紙も異なった質と色のものが整然と並んでいます。子どもたちは、自由にそれらを選び、絵を描くわけですが、表現の多様さの前になによりも自由な感じ方を重んじます。
そうすると4歳の子が黒い紙に黒いペンで森を描く。夜の森だ、と。紙に大きな目と鼻が描かれ、頭やあごが描き入れないとすれば、それだけ目と鼻の印象が強いと先生は解釈するのです。森は緑色だとか、紙のサイズにおさまるように顔を描きなさい、という指導はしません。
実は、息子の通ったミラノの幼稚園もこのタイプだったので、レッジョエミリア幼児教育のリアリティがある程度想像できます。子どもを排除しがちな大人の世界のロジックの歪みに鈍感だと、子どものライフスタイルの編集権は親にあると思い込んでしまう。更に言えば、その編集権が親にあると思うのは、逆にいえば、親は子どもから学ぶ面白さを感じていないのではないか、と。
このあたりにくると冒頭に述べたように地雷を踏みそうなので退散しますが、ひとつ最後に書いておきます。
最近、ブルネロ・クチネリの言葉もよく反芻しています。彼と10年以上前に初めて会ったとき、「世の中ではクリエイティビティの育成が盛んに言われるが、誰でもクリエイティビティはある。自分の尊厳が他人からリスペクトされていると自覚すれば、自ずとクリエイティビティを発揮するものだ」と語っていました。
子どもの人としての尊厳を見るのが大事なのですよね。そうすると、親であることもより面白くなってきます。


