ウェイ・ダイは1kxのリサーチパートナーであり、ブロックチェーンインフラやAIなど先端技術を専門としている。
あらゆる技術的な転換点には、かつて理論上の存在だった技術が普及段階に入り、楽観がアーリーアダプターから大衆へと広がっていく瞬間がある。オンチェーン金融はいま、まさにその局面にある。
この1年、世界最大級の企業の多くが、ひそかにブロックチェーン基盤の活用を試み始めている。財務(トレジャリー)業務、越境決済、サプライチェーンファイナンス、給与支払いなどの分野だ。魅力は明白である。即時決済、異種システム間の相互運用性、そしてセルフカストディ(自己管理)による仲介者の排除だ。私は、金本位制から不換紙幣へ移行したのと同等に大きな、金融インフラの転換の初期段階を目の当たりにしていると考えている。
しかし、この進歩の瞬間には、運動全体を脅かしかねないほど根源的な設計上の欠陥が埋め込まれている。それはプライバシー、より正確には「プライバシーの欠如」である。
デジタル金融のパノプティコン
事業を運営したことがある人なら誰でも、公開できない情報があることを知っている。仕入先との取引条件、ヘッジ戦略、流動性ポジション、ベンダー契約、顧客の身元情報などだ。今日のパブリックブロックチェーンは、あらゆる情報を、常に、すべての人に公開してしまう。
JPモルガンの日中流動性ポジションがゴールドマン・サックスにリアルタイムで配信されたり、アマゾンがウォルマートのサプライチェーンの動きをリアルタイムで確認できたりする状況を想像してほしい。競合他社がビジネスの展開を監視できるシステム上で、フォーチュン500企業が自社の金融基盤を運用することはあり得ない。これはカテゴリカルに、話にならない。
これがプライバシー問題の前半である。後半はさらに陰が濃い。
「プライベートにすればいい」という幻想
ブロックチェーンが透明すぎると聞くと、部外者は通常、単純な解決策を提示する。プライベートにすればいい、と。
そう簡単にはいかないのだ。
オンチェーン金融は時間と距離を圧縮し、価値は現金や物理的な資産ではなく、ソフトウェアのように移動する。これは誠実な事業者にとって素晴らしいだけでなく、犯罪者にとっても同様である。
2025年には、暗号資産で推定170億ドル相当の資産が盗まれた。なかでも記録上最大級のデジタル窃盗の1つである14億ドルのBybitハッキングが象徴的だ。Bybitの共同創業者兼CEOによれば、ハッキングされた資金は侵害から数カ月後も大半が追跡可能な状態にあったという。
これは主に、パブリックブロックチェーンの透明性のおかげである。だが、そこにプライバシーが組み合わさると、追跡不能のハッキングは武器になる。不都合な真実は、誠実な利用者に無条件のプライバシーを与えることは、盗人にも無条件のプライバシーを与えることになる、という点だ。
ブロックチェーンには最終的に、従来の金融システムが持つ安全装置がない。決済の遅延、手動レビュー、機関によるチェックポイントといったものだ。代わりに、資金は機械の速度で動き、追跡の必要性はリアルタイムになる。このようなシステムで無条件かつ絶対的なプライバシーを求めるのは道徳的には魅力的だが、運用上は無謀でもある。
だからこそオンチェーンのプライバシーは核物理学に似ている。強力で諸刃の剣であり、イデオロギー的な絶対主義ではなく、制度的な安全プロトコルを要する。
逃れられないプライバシーのトリレンマ
以前にも述べたとおり、オンチェーンプライバシーのトリレンマとは、次の3つの特性の間にあるトレードオフである。
1. ユーザビリティ:ソフトウェアの速度で価値を移動させる、迅速でコンポーザブル(合成可能)かつ高流動性のDeFi
2. 絶対的プライバシー:取引グラフ全体にわたる、無条件で自己主権的な匿名性と秘匿性
3. 脅威耐性:壊滅的な侵害を追跡し、封じ込め、あるいは巻き戻す能力
残念ながら、この3つは共存できない。オンチェーン金融を今日のようにパーミッションレスでコンポーザブルなまま維持するなら、絶対的プライバシーか脅威耐性のどちらかを手放す必要がある。速度制限がなければ、ハッキング資金の移動と誠実な資金の移動を区別する方法はない。
より多くの企業、事業体、機関をオンボードするために、私が唯一実行可能だと考える道は「脅威耐性プライバシー」である。つまり、日常的な活動にはプライバシーを提供しつつ、例外的事象に対しては、暗号技術により制約された監査可能で範囲を絞った救済手段を可能にするということだ。
脅威耐性プライバシーとは実際に何か
脅威耐性はエンジニアリング上の特性であり、潔白証明(proof-of-innocence)、入金の遅延、閾値(しきい値)制御の閲覧機能といった具体的なメカニズムに依存する。
これらのツールにより、大半の利用者に最大限のプライバシーを保ちつつ、数十億ドル規模の窃盗が闇に消えることを防げる。
対照的に、コンプライアンス適合性は法務・運用上の特性であり、各法域の規制に依存する。
• 取引および入金のスクリーニング
• 制裁(サンクション)管理
• 記録保持、報告、開示義務
オンチェーン金融の未来は「最小権限の可視性」にかかっていると私は考える。これは、必要な証明のために要求される最小限の情報だけを開示し、真に例外的な状況に限って、責任を負う選別された主体に対してのみ最小限の詳細を開示することを意味する。
迫り来る新たなプライバシーインフラの波
この世界はすでに立ち上がりつつある。IncoのアーキテクチャはTEE(信頼実行環境)を活用し、秘匿性を伴うプライベート実行を実現する。Circleと共同設計したConfidential ERC-20標準は、ポリシー適合性を保ちながら、残高の秘匿化を支える。Midenはプログラマブルなプライバシーネットワークを通じて、アプリケーションが機密に運用できるだけでなく、プライベートに相互運用できるようにする。
こうしたソリューションは、脅威耐性をデフォルトとして設計されている。
本当のボトルネック:暗号技術以前の時代に書かれたルール
米国の金融コンプライアンスの枠組みは、仲介者が存在する世界を前提としている。本人確認から取引報告まで、あらゆる仕組みは、機関が監視ノードとして機能することを軸に構築されてきた。だが、プログラマブルファイナンスは、規制当局がこれまで持ち得なかったものを可能にする。証明に基づくコンプライアンスである。
SEC(米証券取引委員会)のヘスター・パース委員は、銀行秘密法(Bank Secrecy Act)がもたらす「あらゆるフラグを危険視する」インセンティブを批判してきた。これは価値の低いデータを膨大に生成し、ノイズの下にシグナルを埋めてしまう。解決策は、証明を活用するより良い規制だと私は考える。身元と非制裁ステータスの証明、資格の証明、資金源が適法であることの証明である。
ゼロ知識のソルベンシー証明(支払能力の証明)を公開できるなら、ゼロ知識のコンプライアンス証明も公開できる。インフラは存在する。必要なのは、ルールが追いつくことだけだ。
最終的なハードルとしての社会的合意
金融プライバシーは技術的課題であり規制上の課題でもあるが、私たちが直面している主要な問題は社会的合意である。業界は(1)脅威耐性プライバシーを標準とすること、(2)政策の近代化、という2点で足並みをそろえなければならない。
次に起きることが、オンチェーン金融が従来の金融システムをより速く、より安全に、よりプライベートに進化させるものとなるのか、それとも、最も重要だったときにプライバシーを真剣に扱えなかったために放棄される停滞した実験に終わるのかを決定づける。
脅威耐性プライバシーが社会的合意となれば、オンチェーン金融は繁栄し得る。



