経済・社会

2026.06.06 14:15

フィールドで読み解く「全体像」と境界をあいまいにするまちづくり

1. ヒュッゲは「文化」か「構造」か:弱い紐帯と、フラットな対話の温度

人類学や都市社会学では、親しい友人同士の強い絆だけでなく、知人の知人といった「弱い紐帯」が、新しい情報や偶然の出会いを運んでくると言われます。デンマークでお会いした方々の話に共通していたのは、オープンさと、コミュニケーションのフラットさ、そして家を開いてお酒を酌み交わすホームパーティー文化——友達が友達を連れてくる、という連鎖で人がつながっていく感覚でした。肩書より会話が先に来る空気は、約3時間にもわたりましたが、そのアットホームな時間は、まさにヒュッゲと呼びたくなる温かさがありました。

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教育の話を深掘りすると、日本では「正解の共有」にエネルギーを使いがちな場面が、デンマークでは「問いの立て方」と「対話の型」に振り分けられている印象を受けました。もちろん国全体を一枚岩のように語ることはできません。それでも、ワークショップの設計や家庭での会話のリズムを通じて伝わってきたのは、子どもだけでなく大人に対しても、議論を「生活の技術」として扱う文化の強さです。私が行政にいた頃を思い返すと、合意形成は正義でありつつ、同時に手続きの重さでもありました。境界を越えるとは、時に「正解を急がない勇気」を組織に持ち込むことなのかもしれません。

一方で、デンマーク在住の日本人の方からは、心を揺さぶる一言をいただきました。「娯楽が少ないから、必然的にヒュッゲするしかない。」

街を歩けば生活に必要なスーパーや雑貨、飲食、インテリアは揃っているのに、日本の都市で当たり前のように視界に入る映画館、カラオケ、漫画喫茶のような「余暇を楽しむための選択肢の密度」は、滞在中ほとんど目にしませんでした。ヒュッゲをロマンティックに消費する前に、「何がないから、何が育つのか」という問いを立てなければ、現場のリアリティは半分しか届かない。そう痛感しました。

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ここで大切なのは、どちらの文化が「正しい」かを争うことではありません。マーク・グラノヴェッターが唱えた「弱い紐帯」の議論は、しばしば効率性やネットワークの話に回収されがちですが、現場ではもっと身体に近い問いとして現れます。「誰が、どこで、どんな余白の中で、誰を招き入れるのか」。ヒュッゲが単なるムードではなく、都市の娯楽インフラや季節のリズムと結びついたとき、私たちは初めて「幸福の設計」を誠実に論じられるのではないでしょうか。
私たちが現場でやるべきは、成功事例のスライドだけを持ち帰るのではなく、エスノグラフィ(文化人類学的な観察)のように、歓待の温かさと、環境が人の選択肢をどう形づくるかの両方を記述することなのかもしれません。リサーチ・スルー・デザインの精神に近いと言えるかもしれません。デザインは、観察のあとにしか始まらないからです。八尾で「みせるばやお」やFactorISMに関わるときも同じで、ワクワクはスローガンからではなく、誰かの家や工場の「間(あいだ)」から立ち上がります。アトツギたちの文化祭と呼べるような熱量は、完成図の上では説明できません。だからこそ、私は「無知であること」「素人であること」を武器にしてきました。知らないからこそ聞ける。偉くないからこそ座れる。デンマークのリビングで感じたのも同じで、完璧な理解者より、誠実な質問者のほうが、現場は開くのです。海外視察は、理想の写真を増やす作業ではなく、自国の当たり前を相対化する作業でもあると、デンマークで改めて腹落ちしました。

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文=松尾泰貴

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