もう一つAIと心の問題に、私が携わっている仕事、「創作」というものがあります。「AIが今後、人間のクリエイションに取って代わる」などと戯言を言う人もいますが、それは「人間」が創作をする「喜び」を無視しています。どれだけレオナルド・ダ・ヴィンチの絵に似たものをAIで書くことができたとしても、ダ・ヴィンチの喜びは再現されません。
芸術は、表現された結果であると同時にプロセスです。その過程に喜びと苦しみがある。
学問もそうだと思います。「問いに答えていくプロセス」。そこに苦しみ、その問いが解けた時、或いは解けた気がする時、例えようもない喜びを感じる。じつはそれは、あなたにその心を感じる「有限の身体」があるからです。
愛情にしてもそうです。AIには体がないから体験がない、だから「初恋の切なさ」を知識としては理解できても、その「切ない心」はわからない。身体がないからです。
「創作」には喜びがある。喜ぶ身体があります。「初恋」には切なさがある。切ない身体があります。
こうした人間の古いテーマである「身体と心」「人間の心」というものが、このAIの登場によって、再び新しいものとして浮上してきている、と私は思います。
人間には肉体があるから、有限の時間があり、けれどもだからこそ、今あなたたちは、「若い」と呼ばれる。肉体があるから「若い」と呼ばれる。現に、新しいAIというものは存在するけれども、若いAIは存在しない。AIには肉体がないから、「老いる」ことはない。古くはなるけれど、年老いることはない。AIが新しくなることはあっても、若くなることはない。「新しい」と「若い」は違うのです。
あなたたちは「若い」のです。「若い肉体」を持つ生き物なんです。そして「若い身体、肉体」からしか生まれない「心」というものがあります。
そこで再びAIとの、あなた方六万年分の記憶バトルの話に戻りましょう。
なぜあなた方が、AIとバトルさせられなくてはならないのか。
肉体を持たないがゆえに、AI は、時に間違った決断をするはずだからです。
身体に根差した「心」を持っていないAIが生みだす答えは、極めて効率的なものになることがあります。例えば「戦争」に直面した時はどうでしょう。身体があるからこそ感じる「死」に対する恐怖や、親しい者への「愛情」など度外視したところで、AIは、ゲームに勝つ理論で、最も勝利するために効率的な効果的な作戦を考えるでしょう。ゲームでミサイルを飛ばすように、ミサイルを飛ばすことを指示するでしょう。極論をいえば、行き着くところは、核爆弾を落とすことさえも示唆するはずです。
こうした話を、恐ろしいものに感じられるのが、身体を通して感じる「人間の心」です。


