前回取り上げた広島平和記念公園が、理解しきれない他者との隔たりを抱えたまま並ぶ「介入の限界」の辺境だったとすれば、弘前は、手を入れ続けることでしか何も次の世代に渡らないという「介入の必然」の辺境である。広島が時間を止めることで問いを開き、弘前が時間を紡ぎ続けることで問いを開く——逆方向から、同じひとつの姿勢を照らしている。
桜の季節に目黒川を歩く数百万人の頭上で、同じ木々が、静かに次の百年に向けた問いに直面している。都市の桜は、もともと厳しい条件のなかで生きている——根元はアスファルトに覆われ、排気を浴び、満開期には無数の足で土が踏み固められる。そのうえで咲き続けてきたのは、植樹に関わった地域の人々の思いと、いま基金や樹木医や桜守の活動によって引き継がれている努力があるからだ。目黒区が2014年に基金を設け、剪定と樹勢回復と植え替えに取り組んでいることも、その継承の一部である。ただ課題は、都市の桜が置かれた条件の厳しさと、それを百年単位で受け止める仕組みがまだ確立していないことにある。

弘前が見せているのは、別の時間の使い方である。花が咲いていない350日、花見客が去ったあとの静寂、誰も見ていない場所での無数の剪定と施肥と土壌改良——そちらのほうに、花の本当の時間が流れている。
辺境とは、見えない時間のほうを本質としている場所でもある。中心が見える時間だけを計量するなら、この公園もまた、年に2週間だけ人が殺到する観光地にすぎない。しかし、見えない350日の堆積にどこまで敬意を払えるか——そこに、これから私たちが未来に何を手渡せるのかが、静かにかかっている。菊池楯衛が植えた145年前の桜は、それを見る私たちを、静かに試している。あなたは、自分が生きているあいだに結果が出ない仕事に、どれだけの誠実さを注げるのかと。


