少なくとも筆者にとって同じくらい魅惑的であるのは、機械の存在密度がますます高まる世界において、人間であるとはどういう意味かという問いだ。これまで、人間の精神とAIをどれほど関連づけることができるのかという点においては、多くの議論がなされてきた。だた、人間の体がどうなるのかということについては、あまり問われてこなかった。
デニーの作品が明示するとおり、アマゾンにはこの点に関する考えがあった。体を閉じ込めることができれば、配列も可能だろうという考えだ。少なくともケージは、生存が可能なように整えられた状況においてのみ生き残ることができる人間の肉体と、その中を流れる血液の不十分さを明示している。
ジオーニ同様、筆者が重視することもまた、政治とテクノロジーに関して見られる歴史的な類似点だ。
人間と機械
人間が自ら発明した機械のようになるという考え方は、産業革命による変化が家庭にも浸透し、自動化が日々の現実となった時期、1920年代までに制作されたデュシャンとピカビアの絵画にも描かれている。
デュシャンの『花嫁』(1912年制作、ニュー・ミュージアムでは1937年に完成した複製を展示)は、「妻であること」は、家庭用電化製品を作るための部品一式に取って代わられるものだということを描き出している。そのほかマン・レイは、『女性』というタイトルをつけたエッグビーター(卵の泡立て器)の写真で、この概念を表現している。
どちらの作品においても、機械が女性に取って代わることができるという考え方が示すのは、そしてコンセプチュアル・アーティストのアグネス・デネスがフェミニストの立場からの反論として1969~70年に制作した空想上のエンジンの模式図、『Liberated Sex Machine(解放されたセックスマシーン)』と題した作品においてより明確に描いているのは、男性の目から見た機械と女性に、もはや大きな違いはないということだ──当惑させられるようなこうした見方の解釈は、鑑賞する側に委ねられている。
想像が生んだ「新しい人」
本展覧会では、「人間であること」の問題が、演劇においても大きな関心事であったことが紹介されている。
ロシア・アヴァンギャルドの代表的な芸術家、エル・リシツキーは1920~21年にかけて、「New Man(新しい人)」を制作した。それは、人工光が太陽に取って代わるというロシアの未来派オペラ、『太陽の征服』の登場人物に着想を得たものだ。「新しい人」は、バレエの特徴である柔軟性を備えた鉄骨梁によって作られたような、工学上の奇跡のようなものだ。
純粋な楽観主義の時代と場所において生み出されたこの男性性を表すハイブリッドな人物像は、人間以上の可能性を持つもののテンプレートであり、リシツキーが、それが人工的に作られたパフォーマーとして具現化されれば、さらなる説得力を持つものになるだろうと想像した像だ。


