N.W.A結成からデス・ロウ、アフターマス設立に至る音楽キャリア
その才能が最初に世に知られたのは1980年代だった。10代だったドレーは、コンプトンのクラブ「Eve After Dark」で、サテンの医療用スクラブに手術用マスクという姿でDJをしていた。地元の質屋で買った機材を使い、ガレージで独学で音楽制作と編集技術を身につけた彼はその後、アイス・キューブ、イージー・E、アラビアン・プリンスなどとともに伝説的ギャングスタ・ラップグループ「N.W.A」を結成した。そして、ヒップホップ史上最高のプロデューサーの1人と評される存在になった。
N.W.Aの物語は、2015年の大ヒット映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の題材となった。2022年、ドレーはヒップホップアーティストとして初めてスーパーボウルのハーフタイムショーでヘッドライナーを務め、スヌープ・ドッグやエミネム(53)、50セント、ケンドリック・ラマーなど、自らが世に送り出した数多くのスターにも光を当てた。
ドレーによれば、築いた富がもたらした最大の価値は「自由」だという。特に、2021年に約25年間連れ添った元妻ニコール・ヤングと離婚してから、その思いは強まったという。現在の彼は、自分の望むことに時間を使える。もちろん、ゆっくり過ごす時間もある。だが多くの場合、彼は次の大きな挑戦に取り組んでいる。それは、1999年のヒット曲『Still D.R.E.』にちなんで名付けたジンブランド『Still G.I.N.』かもしれない。あるいは、パンデミック中に制作し、その後も手を加え続けているという約400曲の未発表音源かもしれない。
ドレーは、少し時間が空くと広々としたリビングルームに座る。そこにはグラミー賞、エミー賞、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星章などをかたどった像が並ぶ壁があり、その下で彼は最低価格が20万ドル(約3200万円)とされるベーゼンドルファーのグランドピアノを奏でる。周囲には、音符や楽曲のアイデアを書き込んだノートが何冊も置かれている。
「人生最高の作品を生み出すような何かを、思いつくかもしれない。その可能性がまだあると思うとワクワクするけれど、同時に落ち込むこともある。そこに何かがあると分かっているのに、もし見つけられなかったらどうしようってね」と彼は語った。
納得できるまで仕上げる仕事の流儀と、アルバム『Detox』中止に表れた完璧主義
ドレーと仕事をしたことがある人は、それがスタジオであれ、Beatsであれ、別の事業であれ、彼のやり方が徹底的に細部にこだわるもので、本人が「世に出せる」と納得するまで手を加えるのをやめないことを知っている。
「ドクター・ドレーには、時間なんて存在しない」と、たびたび共同制作を行ってきたエミネムは、メールで語った。「彼は日付や締め切りや、いつ作品を出すべきかなんてことには意識を向けていない。考えているのは、その作品が出せる状態かどうかだけだ。たとえば、ドレーの2001年のアルバムは、彼が『Still D.R.E.』を録音する前の時点で、自分はもう完成していると思っていた。でもその後で、もしドレーがあの時点で手を止めていたら、あの曲は世に出なかったんだと気づいた」。
実際に、世に出ないまま終わることもある。ドレーは、長年にわたって大きな期待を集めていたアルバム『Detox』に10年以上取り組んだ末、2015年にその企画自体を完全に取りやめた。この決断は、彼が完璧主義者だという評判を強めることになった。
「完璧主義者という言葉を私は、時間稼ぎのために使うことがある。納得できない曲を、発売日に合わせて無理に出す必要はない。時間をかけて仕上げるんだ」とドレーは語る。
彼は、1987年のプロデューサーとしての出世作『Boyz-n-the-Hood』の頃から、そうした一面を見せていた。この曲のレコーディングで彼は、経験の浅かったラッパーのイージー・Eを何時間もかけて指導し、何十回もボーカルを録り直させた。そして、地元のラッパー、アイス・キューブが詞を書いたこの曲のヒットをきっかけにN.W.Aが結成された。グループ名は「Niggaz Wit Attitudes」の略称だ。
彼らは1988年のアルバム『Straight Outta Compton』でギャングスタ・ラップというジャンルを切り開いた。この作品は、露骨な歌詞を理由に多くのテレビ局やラジオ局が放送を拒んだにもかかわらず、ダブルプラチナ(200万枚以上)の売上を記録した。ドレーは全曲でプロデューサーを務めたが、1996年のインタビューでは、N.W.Aのアルバムから自分が受け取ったロイヤリティは2%だったと語っていた。
「若い頃の私は、自分の権利について知らなかった。ただ自分のやりたいことをやっていただけだったからだ。自分の才能が何を意味するのか、どれほど大きな力を持つのかを、当時は正確に理解していなかった」と、ドレーは振り返る。
彼は1991年、悪名高い音楽業界幹部マリオン・“シュグ”・ナイトとともにデス・ロウ・レコードを共同設立するためN.W.Aを離れた。そこでドレーが打ち出した「G-Funk(ギャングスタ・ファンク)」は、西海岸ヒップホップを象徴するサウンドとなった。ソロデビュー作『The Chronic』は1993年に300万枚超を売り上げ、彼の7度のグラミー賞受賞のうち最初の受賞をもたらした。スヌープ・ドッグの400万枚以上の売上を記録したデビュー作『Doggystyle』や、トゥパック・シャクールの売上200万枚以上のシングル『California Love』などでプロデューサーを務めたことで、ドレーはこのジャンルをメインストリートの商業音楽へと押し上げた。デス・ロウ・レコードの年間売上高は、1996年までに1億ドル(約159億円)を超えていたと報じられている。
ドレーはその後、レーベル内の暴力や、同年秋のシャクールの殺害につながった米西海岸と東海岸の間のヒップホップ抗争の激化から距離を置くため、1996年にデス・ロウ・レコードを離れ、価値の高い持ち分も手放した。その後、彼はジミー・アイオヴィン(73)のインタースコープ・レコードの傘下に、自身のレーベル「アフターマス・エンターテインメント」を設立したが、当初は以前の成功を再現できずに苦しんだ。
「彼のレーベルは本当に低調だった」とアイオヴィンは振り返る。シャクールやレディー・ガガ、ノー・ダウトなど多数のグラミー賞受賞アーティストを手がけた彼は、こう続ける。「彼にはひらめきが必要だった。ただ、彼はめったにひらめかない。完璧な波が来るのを待たなければならないんだ」。


