これは決して、冷淡になったり自己中心的になったりするべきということではない。寛大さと消耗の違い、助けることを選ぶことと断れないことの違いを理解すべきだということだ。「ノー」と明確に、そして過度に謝ることなく言える人は扱いにくいのではなく「イエス」に確かな意味がある人だ。
3. 場の空気に流されず反論するための「扱いにくさ」
これは職業的に最も過小評価されている健全な非協調性の形かもしれない。皆が同調している会議の中で「それが正しいか、私は確信が持てない」と言うのをいとわないことだ。
発言することにはその場での社会的コストが伴う。異議を唱える人は、協調性に欠ける、協力的でない、チームプレイヤーではないと見られることがある。だが時間が経つにつれて評価は変わることが多い。厳しい質問を投げかけ、根拠の薄い仮定に異議を唱え、欠陥のある計画を見過ごさない人は別の種類の信頼を築く。たとえ摩擦を生むことがあっても、より信頼できる存在と見なされることが多い。
PNASに2020年に掲載された、職場における権力に関する研究はこの点について重要な補足を提供している。支配的で攻撃的な行動のみに依存していた非協調的な人は、協調的な戦略を欠くことで自らを損なってもいた。効果は相殺されていた。つまりここから得られるのは、対立的であることが役立つということではなく、社会的攻撃性から切り離された知的挑戦は全く別の次元のものということだ。
これは意見が合わないことと非協調的であることが異なることには重要な違いがあるためだ。その違いをうまく見極められる人にとって、率直さと、利用されることを拒む姿勢は職業上の真の強みとなり得る。
「なぜこのやり方なのか」と問いかける人は問題を起こしているのではない。多くの場合、その場で唯一、自分の仕事をまっとうしている人だ。そして悪いアイデアに対して誰も異議を唱えようとせず、結局莫大なコストがかかることになるような組織においては、その人は不可欠な存在となる。
「扱いにくい」という言葉は広く使われている。心理学はより正確に区別すべきだと示している。チームや人間関係を損なうタイプの扱いにくさも存在し、それは研究が推奨するタイプではない。だが基準や自尊心、知的な誠実さに根ざした別のタイプについてはデータが一貫してその価値を認めている。目指すべきは、付き合いにくい人になることではない。無視できない存在になることだ。


