イリノイの農場で育ち、40年で全米最大の歯科医療ネットワークを築き上げる
ワークマンは、イリノイ州クレイシティ郊外の農場で育った。通っていた小学校は教室が3つしかなく、同級生も6人だけで、担任教師は母親だった。実家の農場ではトウモロコシと大豆を育てていた。幼い頃から働き始めたワークマンの最初の仕事は、4歳のときの卵集めで、7歳になる頃には牛の乳搾りもしていた。夏になると、10時間から12時間ぶっ通しでトラクターに乗る日も珍しくなかった。土曜日にはたいてい、たい肥小屋の掃除や、干し草を束ねる作業などの誰もやりたがらない仕事が待っていた。
「楽しいものではまったくなかった」とワークマンは振り返る。その経験から、農業に進みたいという気持ちはすっかり消えたという。
農場を離れるための最初の一歩が、大学進学だった。ワークマンはまず、自宅から約32キロ離れたコミュニティーカレッジ、オルニー・セントラル・カレッジに進学した。当初は、カイロプラクティックのドクターを目指すことも考えていたが、知人の医師から、代わりに歯科医になる道を勧められた。
彼は当時すでに理系分野を学んでいたため、進路を変えても履修内容を変える必要はなかった。ワークマンはサザンイリノイ大学に編入し、1977年に生物科学の学位を取得した後、歯学部に進んだ。
1980年、地下物件に診療台2台の小さな歯科医院を立ち上げ
1980年、ワークマンは家族の農場から車で約40分のエフィンガムで、最初の歯科医院を開業した。彼は地下の物件を見つけ、両親と祖父母から3万5000ドル(現在の価値で約15万ドル[約2385万円]相当)を借りて、診療台2台の小さな歯科医院を立ち上げた。広告宣伝費として使ったのは、建物の正面に掲げた15ドル(約2385円)の手描き看板だけだった。開業1年目の目標は、高すぎはしないが野心的なものだった。「2万5000ドル[約398万円]だった」と彼は振り返る。これは当時の米国家庭の所得中央値を20%上回る金額だった。
事業はすぐに伸び始めた。翌年になるとワークマンは、約40キロ離れた町から毎月20人以上の患者が来ていることに気づいた。その患者の1人が銀行員で、その町に新たな医院を開くなら有利な条件で融資すると持ちかけた。ワークマンはこの提案を受け入れた。まもなく彼は2つの医院を運営し、若い歯科医をもう1人雇うようになった。仕事量は膨大だった。患者の治療に週約55時間を費やし、そのうえで経営面の業務に加えて30時間を充てていた。
1982年には、別の町に3つ目の医院を開いた。その後も開業は続いた。やがて彼の事業は「Workman Management Group」と呼ばれる会社へと発展し、イリノイ州内で29カ所の医院を展開し、21人の歯科医を抱えるまでになった。
1997年、42歳だったワークマンは、そのうち4つを除くすべての医院を1580万ドル(約25億円)で売却し、個人の手元には売却益として約1100万ドル(約17億5000万円)が残った。だが、そこで悠々自適の生活に入るのではなく、ワークマンはその年のうちに、大きな商機を見込んでHeartland Dentalを立ち上げた。
DSO(歯科支援組織)と不動産事業を柱に、歯科業界の姿を大きく変える
歯科業界は長年、個人が営む小規模な診療所が主流だった。米国歯科医師会の政策研究機関によると、25年前には歯科医の3分の2が単独開業の診療所で働いていたという。こうした状況が変わり始めたのは1990年代だ。州法で企業による医療機関の所有が禁じられていたため、その抜け道としてDSO(歯科支援組織)が生まれた。この仕組みでは、診療を行う歯科医院そのものは歯科医が所有し、経営インフラはDSOが保有する。これによって、プライベートエクイティが業界に入り込む道が開かれた。現在では、単独開業の診療所は全体の3分の1にまで減っている。
Heartland Dentalも、こうした仕組みのうえに築かれたマネジメント会社として出発した。発想は単純で、「歯科医は患者を診て、経営は別の誰かが担う」というものだ。Heartlandは綿球などの消耗品を調達し、歯科助手を採用する一方で、診療の中身に関する権限は歯科医に委ねたままにした。
もう1つの柱は、好立地に建物を建設して歯科医を集める「WMG Development」
もう1つの重要な柱が、不動産とインフラだった。ワークマンは早い段階で、「WMG Development」という不動産開発会社を設立した。この会社が好立地の土地を取得して建物を建設し、それをHeartland Dentalに賃貸する。Heartland Dentalはそこに入る歯科医を集める役割を担った。フロリダ州ウィンターガーデンに本拠を置くWMGは、これまでに30州超で14億ドル(約2226億円)規模の不動産開発を手がけてきた。地下の一角で歯科医院を営むのが当たり前だった業界にとって、ワークマンの企業的な手法は革新的であると同時に、既存の秩序を揺さぶるものでもあった。
もちろん、それを快く思わない人もいた。米国歯科医師会は長年、この職業の独立性を守ろうとしてきた。だが、ワークマンのような皮肉屋に言わせれば、それは「ゴルフの合間に歯科医院を経営するようなライフスタイル型ビジネスを続ける自由」を守ってきたにすぎない。2007年にニューヨーク・タイムズが、全米で歯科医が不足している実態を調べた際には、歯科医師会は不足そのものを否定し、歯科医療の担い手を増やそうとする動きにも反対していたと報じられた。ワークマンが事業を拡大し、経営指標を使って歯科医院の運営を測るようになると、多くの歯科医はそれを脅威と受け止めた。


